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Live and Let Live 増補改訂版③ JG Thirlwell (Foetus、Steroid Maximus、Manorexia、Xordox etc.)

[10/24] アルバムジャケット追加

収録内容
・ロンドン・クローリング (ロンドン移住とパンクシーン)
・サム・ビザール (スティーヴォ、ノイバウテン、コイル)
・ネオンライツ・ビッグシティ (ニューヨーク移住とノーウェイヴ・シーン)
・インダストリアル・ビッグバンド (ステロイド・マキシマス)
・ダウンワード・スパイラル (『GASH』とキャリア停滞)
・エクトピック・ミュージック (オーケストラ化とマノレクシア)
・制約と発展 (『Venture Bros』)
・冷徹な世界 (『LOVE』、『HIDE』)
・音楽のリポジトリ (デヴィット・ボウイと数多の音楽プロジェクト)

ボイド・ライスがミュート・レコードのダニエル・ミラーとスタジオ で録音していた時期、当時カムやソダリティーとしてパンクを不協和音に近づけたレコードを制作し、後にホワイトハウスを立ち上げるウィリアム・ベネットもミラーの協力を仰いでいた一人だった。ミラーはドクター・デスの名前でカムの録音に関わっていたが、時折彼とは別にもう一人録音に参加する者がいた。ジェームス・ジョージ・サールウェル、後にフィータスを名乗る男である。カムやミラーに限らず数多くのバンドに出入りしていたサールウェルは、プログレのようなプレイヤーとしての貢献ではなく、バンドそれぞれの個性に合わせて変容し、進化を促進する一種の触媒と言った方が正しかった。様々な相手と組むことで化学反応を起こせた理由は、彼が多角的に録音を捉えることが出来たからこそで、アレンジからボーカル、手製含 めた多数の機材の使い方など、サールウェルに死角はなかった。本人も80年代の時点で自分に並んでいた人間はトッド・ラングレンくらいだったと豪語するデザイン的な作曲法が、今日のオーケストラによる録音、それも曲を安易にクラシック調にしたようなものではなく、必然としたそれに帰結したのは少しも疑問に値しない。

アイデアとしてのパンクにはじまり、現代音楽、ムード・ミュージック、映画のサウンドトラックは彼にとっての源泉であり、これらの音楽からヒントを得んとする者たちはサールウェルを介して繋がり合った。この コネクター的役割が為せたのは彼の出身がオーストラリアであることにも少なからず起因するだろう。パンクで燃えた英国、二つの世界が混ざり合うっていたベルリン、アーティストたちの終着点だったニューヨークの地下。これらの最前線から離れた土地にいたからこそ、サールウェルはこれらを分析できたのだった。 オーストラリアが抱えていた退屈は深刻な状態にあったと、サールウェルや同郷のアーティストたちは振り返る。それは海を越えるには充分な理由で、それほどに当時のオーストラリアは音楽的には不毛の土地だったと。実際のところ、ラモーンズといったバンドはツアーでオーストラリアを訪れていたし、パンクの波はセインツやレディオ・バードマンといったバンドを生んだのだが、英米独といった最前線と比べると物事が進んでいないのは明らかだった。ニック・ケイヴはこの土地が前衛的な音楽を受け入れることはなかったと振り返り、SPKのグレアム・レヴェルは自分たちこそオーストラリア初のパンク・バンドと自称した。土地から生まれた年まで、ケイヴとほぼ同じだったサールウェルも退屈を感じていた。幼少期に外から入ってくるものは定番中の定番ばかりで、彼が初めて見たライブは六八年のモンキーズ、次いでゲイリー・グリッターという有様だった。彼は息苦しさをアート、それもプロテスタントであった 両親にとって反社会的なものでごまかすようになり、ラモーンズとボーイズ・ネクスト・ドアによってパンクを知ることになる。ボーイズ・ネクスト・ドアはニック・ケイヴとギタリストのミック・ハーヴェイがバースディ・パーティ以前に組んでいたバンドで、彼らは70年代の終わりに地元を見限って渡英する。パンクのおかげで一つの文化的メッカとなったロンドンに吸い寄せられる以前にも、サールウェルは母親に連れられて英国の都市部を訪れており、「母国よりも母国らしく感じた」と彼の地に惹かれていた。スクールを卒業して美術学校へ入学するも、外の世界への関心は衰えることはなく、ある日家族への相談をなしに「旅行」と称して単身渡英した。

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