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「キモいと言うのは危険なのでやめろ」は妥当か?:リスク・シグナリングの巨大リスク


1.セットアップ

まず、状況設定をシンプルにするため、仮の話として聞いて頂きたい。

1) 男性Aが深夜に女性Bに声掛けを行った。

2) BはAに対して「キモい」と言った。

3) Aは逆上、Bを暴行し、逮捕された。

この件に関して、

X:「一般にキモいと他人に言う事自体が危険であり、自己の利益のため避けるべき行動だ」

インターネット上で述べた場合、どうなるだろうか?

上記のXが単体で妥当かについては、とりあえず踏み込まない。その前に認識しなければいけないことがある。

もし仮に、上記のXを、全くの妥当な一般論のつもりで述べたとしても、次の反応を引き起こし、Xの妥当性に関する合意可能性そのものが失われることを説明したい。

Xに対する、典型的な反論Yと、更にそれに対する典型的反論Zを私自身が推論し、論理が通っている形で勝手に構成してみる。

Y:「これは脅しによって女性にリスク回避コストを押し付ける行為で、そもそもXに類似する発言の多くがその目的でなされる。すなわち、他人のリスクを勝手に判定し、シグナリングする行為自体が女性に対してのアドバイスを装った攻撃の可能性が高い

Z:「ゼロリスクが不可能である以上、最低限の自衛は必要で、Yの発言は非論理的だ。仮に女性であっても同じ女性のリスク最小化に関してアドバイスすべきし、実際そうしている人もいる。Yのような発言は、リスク最小化自体を不可能にし、結果として社会全体のリスクを上昇させる愚かな行為だ

あなたはどちらかの意見に賛同しただろうか?残念ながら、どちらも危い。

それは、そもそもこのような具体例に対してXを持ち出すこと自体の危険性から生じている。

言論空間全体の危険性を低減するためには、X,Y,Zを述べている全ての人間が立ち止まって考え直す必要がある。

2.リスクとコスト

リスクに対する「一般論」をまず述べよう。

「リスクをゼロにすることは不可能だ。リスク低減にはコストがかかる。第一の責任主体は行政だが、行政は完璧ではない。故に、自身でコスト・リスクを比較した上で行動を選択するべきだ。単に自己の利益の最大化の話だ」

これは一見妥当であり、これを自ら行う場合は、全くの合理主義者だ。

しかし、これを他人に要求したり、もう少し弱めて、単にアドバイスする場合でも、状況によっては、非常に危険な帰結を招きかねない。

まず当たり前の事実を述べる。

リスクとコストの比較は難しい。どんなに賢い人間であっても、一貫した立場を確立するのは不可能に近い。


初歩的な話として、統計学の理論や実践を含むあらゆる行為は、まずリスクとコストに対する態度を決定して初めて、議論できるのであって、それを定めずに「合理的」であることを命じる事自体が非合理的だ。

リスク・コストのみならず、あらゆるトレードオフ理論は、たとえ完全情報であったとしても原理的に可能なトレードオフを語るのみであって、その中から何を選ぶべきかについては何一つ語らない。

そして、人生の選択については、大規模研究でも実施しない限り、完全情報どころかほとんどゼロ情報なので、リスク・コストがトレードオフである、以上のことは何も教えてくれない。

複雑な話ではない。

例えば、ある人間が病的な潔癖症なのか、妥当な衛生観念の持ち主なのかは状況により、一意には決して定まらない。定量的に議論しようとした段階で、今流行している多くの病気についての統計データが必要だし、仮にそれをやったとしても、物別れに終わる可能性が高い。これは現状のパンデミックを取り巻く言論をすこしでも観測すればわかってもらえるはずだ。

3.リスク・シグナリングのリスク

さて、ここで問題です。

 「夜中に不審者らしき人間に声をかけられた。返答として、キモい、と言うことのリスクはあるか?それはどれくらいか?」

「一般に、キモい、と言うことのリスクはあるか?それはどれくらいか?

答えは何でしょう?

「分からない」

はい。

馬鹿にしているわけではない。これ以外に答えようはない。

リスクがあるかすらよくわからない。もしかしたら、キモいということで逆に何らかのリスクを回避できているかもしれない。

詭弁だろうか?だが、それを判定するには、統計データが必要で、それがない以上は単にシグナリング合戦が始まるだけだ。しかも真実は誰にもわからない不毛なシグナリング合戦だ。

無論、現実には、他人を罵倒することにリスクが有ることぐらいは、誰でも承知しているだろう。だが、各々のリスク推定が妥当なのかについては誰も答えられない。

人々が、特定の行動のリスクを適当に推定したとき、そのリスク推定値の分布は何らかの範囲内で定まっているのだろう。それが行動を選択させ、マクロな治安や安心感などを決定する。

それは決して固定化されていない。何らかのシグナリングを行い、公論上でアナウンスすることで、人々のリスク推定は変更される。

そして、大抵の人は直感的にそれを理解している。何か危険を訴える人を見ると、それは誰かを操作しようとしているんじゃないか、と疑い、抵抗したり、逆に動こうとする。

どのアナウンスを聞くか、疑うかは、論理ではなく、何を気に入るかとか、不安にかられたとか、過去の信用とか、ともかく感情だけで決まる。それは単なる感情論ではなく、ある種の合理性だ。信頼感がない時は、仲間だけで集まろうという挙動である。

もう一度、意見の例を見てみよう。

X:「一般にキモいと他人に言う事自体が危険であり、自己の利益のため避けるべき行動だ」

Y:「これは脅しによって女性にリスク回避コストを押し付ける行為で、そもそもXに類似する発言の多くがその目的でなされる。すなわち、他人のリスクを勝手に判定し、シグナリングする行為自体が女性に対してのアドバイスを装った攻撃の可能性が高い

Z:「ゼロリスクが不可能である以上、最低限の自衛は必要で、Yの発言は非論理的だ。仮に女性であっても同じ女性のリスク最小化に関してアドバイスすべきし、実際そうしている人もいる。Yのような発言は、リスク最小化自体を不可能にし、結果として社会全体のリスクを上昇させる愚かな行為だ

これらは論理だけ追えばどれも妥当性は主張できるはずだ。だが、問題はそこではない。

これらはどういうシグナリングとして振る舞うか?断定するが、次のような中身のないアナウンス合戦を行っているに等しい。

X':「キモいと発言することはリスクだ!」

Y'1:「「キモいと発言することはリスクだ!」という発言を受け入れることがリスクだ!」

Y'2:「「〜はリスクだ!」という発言を受け入れることがリスクだ!」

Z':「Y'1,2のような発言をすることがリスクだ!」

これらのどれを受け入れるかを、論理で決定しようとした人は、まだ私の言っていることを理解していない。

これらのどの立場を取るかは、男性Aと女性B、どちらに同情するか、あるいは、X,Y,Zを述べている人たちのうち、誰を信用しているかだけで決定される。

よって、単に話は通じなくなる。そしてキモいと発言する人が減って欲しいという目論見がXにあったなら、絶対に達成されない。なぜなら、コンテクストを共有せず、何も考えていない普通の人は暴力の被害者である女性Bに同情するからだ。

そうでない人は、初めから他人に向かってキモいなどと言う人ではあるまい。この対立状況で、「確かにキモいと発言するのはよくないよね」と同意してくれるのは、Xを言った人間の友達か、キモいという人間を絶対悪だと思っているか、非常に理性的か、単純にとてもいい人か、のいずれかだろう。

それ以外の人は、良くてすべての話を無視するが、悪くすればY'1とY'2にバイアスされ、むしろ「キモい」と言ったほうがリスク低減になるのでは?とか、「他人からのリスクのアドバイスは一切無視したほうがいいのでは?」という思考になってしまうだろう。

こうなるともはや説得は不可能だ。説得はさらなるバイアスをよぶ、デッドロックが完成する。これこそがリスク・シグナリングの巨大なリスクだ。

Y'1,2を受け入れるのも多分危険だ。少なくとも「他人からのリスクのアドバイスは一切無視したほうがいいのでは?」という発想は、それ自体ヤバい、ということは冷静に考えれば分かるはずだが、バイアスされてここまで行ってしまう人も存在する。Zによる批判は攻撃とみなされ、むしろそれを後押しするとともに、Xを否定する根拠にも逆用される。

4.常識に関する常識は可能か

常識レベルで言えば、家に鍵はかけたほうがいいし、不審者の相手はしないほうがいいし、未成年が一人で夜出歩くのは危ないし、他人を罵倒するのはやめたほうがいいし、キモいというのもやめたほうがいいし、未成年の異性に声掛けするのは避けたほうがいい。

しかし、それをインターネットで具体的な事件について述べることは、どういった効果をもたらすか?それらは色々と個別の事情があるわけで、それを無視して常識で処理するのは、単に攻撃に見える。

常識を、誰かを攻撃する手段にするのはよくない。そう思われる可能性がある時点で、危険だ。それを行うと、常識そのものが「攻撃」の手段として認識され、どんどん受け入れられなくなってしまう。

常識を、他人を攻撃する手段にしてはいけない、というのは常識化できるだろうか?現時点ではやや難しいかもしれない。本noteの主張自体も、特定の誰かに対する攻撃だとみなされてしまう危険性は常にある。

やや絶望的な結論で終わったが、ともかく、目についた事件を起点に、終わらない喧嘩をするのは一切やめにするのが、合理的だと思う。

そうしない限りにおいては、他人に「キモい」という人を減らすとか、犯罪者を減らすとか、そういった具体的な取り組みに協力して当たることは、そもそも不可能であり、どんどん不可能になっていくのではないだろうか。


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