「相互理解」のアンチパターンとしての民主主義教育

以下を読んで、理想的にはみなさんに、自分自身の考えをnoteなどで書いてみるとか、それぞれで広めてもらいたい。このnoteをリンクしたり、文脈の起点にする必要は一切ない。私の書いたものが広がっても、結局は何の意味もないからだ。

矛盾するようだが、読むのも、書くのも暇のある人だけで構わない。自分の生活、興味、やりたいこと、が第一である。私は特に暇人で、この問題に関心があるので、色々書いているに過ぎない。

長文読む気分じゃない、という方は、ここでnoteを閉じ、睡眠を取るなり、なにか食べるなりして、いつか暇な時思い出して頂きたい。思うに、いま現代人に最も必要なのは民主主義より前にしっかりとした睡眠だ。



この論考は、noteでとくに私がやりたい、と思っていることのひとつなのだが、それゆえに、中々自分でも一貫したビジョンがつかめていない。問題点は明らかなのだが、解決のためのアイディアは遠すぎる。

民主主義教育を改変してまともにする、などという運動を筆者がおこすのは流石に能力的に無理だ。ゆえに、やや投げっぱなし感はあるが、構造的に明らかな問題点、失敗の主因だけ列挙したい。

まず、私は教師ではない。教育学、法学などの専門家でもない。つまり、民主主義教育を行う側に立ったことはない。そのため、その意味では、この論考はやや一方的なものだろう。私の中には、民主主義教育を受けたことがある、ひとりの元生徒、元学生、一市民としての理解しか無い。その観点で、「民主主義教育」が全くの失敗、むしろ逆効果であること、それはなぜなのかを論じたい。

今の民主主義は2つの意味で、明らかに失敗する原因を持っている。ひとつは、そもそもの内容、民主主義の構造についてひたすら建前論を述べていることだろう。これはギリギリ、仕方がないとも言える。まず建前から入ろう、というのはある意味で自然だ。だが、民主主義に関しては、そもそもそれが「建前」ですよ、事実とは全く異なりますよ、とつねに言い続けなければ、そもそも教育を受ける意味すら見えてこない。

致命的なのは2点目、教育の方法だ。一般に、日本の教育ではまず義務教育でとりあえず知識を叩き込み、高等教育でそれがどの程度、どういう文脈で「正しい」のか考えさせる、という方法を取る。これを民主主義教育でやってしまった場合、義務教育で終わってしまった人に「再教育」することがほぼ不可能になってしまう。こちらが真の病巣なのだが、解体は容易ではないだろう。

ここにも、全てはコミュニケーションである、という事実を忘れ、一方的な伝達を行ってきた事実が、「相互理解」を徹底して阻んでいるといういつもの構造がある。「民主主義は多数決ではない」というとき、それを「多数決ではない」と思っている人の間で語り合っても何の意味もない。「民主主義は多数決だ」「多数決のほうが都合がいい」「多数決以外無理だろう」と思っている人間に、言葉を尽くし、行動で示して納得して貰う必要がある。この当たり前の事実を、面倒だからと見ないようにしてきた。必要な「相互理解」とは何か、について真面目に考えてこなかった。

以下ではこの2つの問題をもう少し詳しく述べていく。

1.「建前論」の空虚さ

まず前者、内容について。これは、なんとかnoteでも述べようと頑張ってきたことだ。とくに義務教育では、民主主義の建前論だけを述べ、実際の対立における対話の、ほとんど不可能なまでの難しさについて、真面目に扱っていない。主体性をもて、政治に関心を持て、他者に寛容になろう、議論の、民主主義のルールを学べ、そして投票にいこう、などという空虚さだ。

現在、主体性とは単に自分たちの立場を喧伝すること、それだけだ。民主主義になど誰も関心を持っていない。政治状況だけに関心があるのに、自分は民主主義に関心を持っていると勘違いしている人間がいるだけだ。議論のテーブルに付くことがほとんど不可能なのに、議論の勉強など、一体何を言っているのか。人はただ論破のテクニックを磨くことにしか興味はない。寛容になれと言って人々が寛容になるのだったら、そもそも問題は発生していない。それらに意味がないことぐらい、ほとんどの生徒は見抜いている。

無論、半分は日本教育界隈に向けられる、異様なる「政治」忌避が背景だから、教員個人の責任を問うのも虚しい。だが、下手をすると、建前だけを教えているという自覚すら無さそうな教員もいる。それ自体は、教員自体が嘘の教育しか受けてこなかったから、本人の罪ではないともいえる。分かっている教員にも、個人ではどうしようもないのも事実だ。それにしても、状況は酷すぎるだろう。

2.教育方法の構造的失敗

だが、やはり最も重大なのは、教育の仕方、教え方の問題だ。民主主義教育は、他の科目の教育のように、とりあえず高校までは知識を教え、大学教育において再びじっくり考えさせる、という形を絶対にとってはいけなかった。これが致命的な捻れ、国民の間に断絶を生み出してしまったと考える。

この手法は確かに、自然科学などについては効率的である。しかし、民主主義教育についてこれを行うと、大学以降で自発的に民主主義について学ばない人たちには、義務教育で吸収した「知識」はただの建前論、どころではなく「自分たちを騙そうとしていた嘘」になってしまう。こうなったらもう終わりだ。これは中卒者、高卒者だけの問題ではない。大学の教育は学ぶ気がない人間は絶対に自主的に学ばないし、下手するとここでも一方的な知識伝達で終わる。いまや学問も、自分の利益のためだけに行うものなのだから、利益がないと思っている人間は学ばなくて良い。多数派が「民主主義なんてどうでもいい」と思った瞬間、全ては終わりだ。

これ以降、民主主義に関して誰が何を「自主的に勉強しろ」などと言っても全く無意味だ。自分たちから「主権=投票権」を取り上げるために洗脳をしようとしてくる狂人にしか見えていない。この事実を認識せず、他人に「民主主義を勉強し直せ!」などと言っている、自分を賢者と勘違いした愚か者はSNSに特に多い。それは全くの逆効果だ。もしあなたがそれをやっていたなら、あなたは民主主義の擁護者ではなく、破壊者である。民主主義は多数決でない、という発話は、事実の指摘でなく、多数決の結果の否定としてしか捉えられない。それは見事、「頭のおかしい少数派の洗脳攻撃」としてのコンテクストを獲得する。少数派は永久に多数決で弾圧される。詰みだ。

すくなくとも、民主主義教育に関しては、はじめの知識を伝える段階から、もっともっと謙虚に、慎重になるべきだった。これは必ずしも学校教育だけの問題ではない。SNSで全くの見知らぬ、無礼な他人に対して言う場合も、以下の発話以外はありえない。

あなたたちと私は対等なので、一緒に、「民主主義」という難題に取り組みましょう。知識が足りないなら、教えて差し上げます。とはいえそれは絶対不変の真実などではありません。我々がつねに考え、維持していくものです。

これ以外に、方法はない。相手は主権者だ。どんな相手からも、主権は絶対に取り上げられない。これがルールだ、従いましょうなどと言う発話は全くの無意味、かつ傲慢である。法曹、法学者が事実を知っている?正しい見解を持っている?一体そんな貧弱な「権威」で何をしようというのだろう。言葉を尽くすこと、コミュニケーションを放棄し、「権威」にすがったが最後、人々は自分の好きな「権威」を持ち出して、好きに信じるものを決める。そこで永久に断絶は固定化される。

この結果、法曹や法学者といった民主主義の擁護者たちの信用もズタズタに毀損されている。今、彼らはせいぜいが、現実を無視して自分の利益と信仰に尽くす、生臭坊主の類だと思われている。彼らが法学的に正しい見解を述べるたび、「多数派」がしばしまったくの逆に動こうとするのも、これが理由だ。

いま「正しさ」などなんの役にも立たない。信頼がなければ、それは知識の非対称性を利用した誘導、攻撃、洗脳にしか見えない。最も大切な信頼感の醸成を放棄し、とりあえず知識を詰め込もうとした結果、知識はゴミになり、民主主義は喚き合いになり、対立する人々はまともに意見交換すらできなくなった。割りを食うのは少数派と、わけも分からず多数派に逃げ込んでいる弱い人々、そして絶望し諦め投票や意見表明すらしない日和見派、つまりほぼ全ての市民である。

これは決して、「与党のせい」などではない。今の政権、今の与党が勝ち続けているのは、上記の結果に過ぎない。あえていうなら、少数派に属する知識人、今の民主主義が問題であると理解している知識人たちのせいである。彼らは、多数派と日和見派を説得し、知識を与え、考えてもらわなければいけない立場である。決して、偉そうに「勉強しろ」などと命令できる立場にはない。なぜ私がそんなことを?国民が勝手に変わるべきだ、などと言う人間は、知識を詰め込んで知性を放棄した、自分が賢いと思いこんでいる、一番始末が悪い類の人間だ。知識はただの個人の所有物ではない。人類の共有財産である。それを誰かが自分の優位性のためだけに使うから、知識自体が永久に汚名を着せられる。

知は力である。教育を受けた人間、知識を持っている人間は、それをそうではない人々に分け与えるからこそ尊敬されるのであって、不当に高く売りつけたり、相手を屈服させるために使ったなら、単なる乱暴者だ。

もちろん、そんなこと全ての少数派がやるのは無理だ。だから一部のエリートは、常にそれを行って、少数派と多数派の価値観や利益争いの調停に務めるべきだった。しかし、勘違いした知識人たちは、単に「正しい」少数派の立場から「間違った」多数派を攻撃するゲームを楽しむだけで、民主主義における政治に真面目に取り組もうとしていない。

これを述べてもまだ、「いや、知的能力が足りない人間はともかく、悪人が悪いのは自己責任なので、助ける必要はない」などという方がいる。脱力するしか無いのだが、何度でも述べておくと、なにかが「悪」だと合意できるのは民主主義の結果としてだけであって、まともな民主主義が成立する前に勝手な「悪」を持ってきてはいけない。そして、合意できるためには、信頼感、つまり「悪」側になっても大損をしないという予測が必要だ。

3.問題解決のために、何ができるか

さて、このように問題は明らかなのだが、解体は容易ではない。

たとえば私が団体でも立ち上げて「ほんとうの民主主義教育セミナー」の講師にでもなるとか、もう少し小規模に自費出版でもして「真なる民主主義教育を求めて」とかなんとかの作文を発売しても、まったくの徒労に終わりそうだというのは、これまでの論法で分かっていただけたと思う。

あくまで、「今の民主主義はおかしい、変えたい」と切実に思っている人々が、自分の意思だけで戦略を変える必要がある。それは実に遠い。

しばらくは、noteで作文を書き続けるしか思いつかない。それをもとに、皆さんに考えて頂き、納得できないところとか、もっといいアイディアがあるなら自由に改変して、何かを書いてほしい。私のnoteにリンクを貼ったり、文脈の起点にする必要は一切ない。しつこいようだが、あくまで自分自身の考えを書き、話し、行動し、広めてもらいたい。私の書いたものが広がっても、何の意味もない。危機感の共有、問題の構造の把握、それが必要だ。

インターネット、そしてnoteは、本来それが可能な媒体だと、個人的には思っている。とりあえず今回はこのあたりで筆を置く。


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