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「ファシズムvsアンチファシズム」を解体できるか?(4)「結束主義」から「和合主義」へ

0.ここまでのまとめと日本の政治状況

前回までの一連のnoteで、アンチファシズムが「正義」であるのにも関わらず暴力的なのは、構造上どうしようもなく、自発的にやめることも不可能で、かつ彼らの運動も無意味である事をみた。アンチファシズムの問題は、アンチファシズム自身では永久に解決不能である。

これの「解決」として私は以下を提案する。

ようするに、ファシズム的なもの、ファシズムの部品だけが好きな人々に対し、別の選択肢を用意すれば良い。それは、ファシズムの部品だけが好きな人々に都合の良いものである必要がある。そしてそれが「暴力」を行わなければ、アンチファシズムも自動的に非暴力的になっていくはずだ。

とはいえ、アメリカのような絶対対立のコンテクストだとだいぶ難しいし、私には知識が足りなすぎる。

これ以降は、日本の政治状況を主に焦点に当て、アイディアを述べる。

日本にファシズムなんていないんだし、関係なくない?と思った方は間違っている。アンチファシズムは確実に存在しているため、それを弱めるためには、それ以外の人間が変わる必要がある。それだけである。

日本のANTIFAは、海外のそれほどは暴力的ではない。これも、良心や人格の問題ではなく、海外よりは日本の暴力状況一般が非常に抑制されているからである。そして、弾圧されない程度の最大限の暴力は行使するため、その他の日本人からすれば十分に暴力的である。ゆえに広い人気はない。暴力とは、言論の上でのものも含むし、ファシズムとみなした勢力への物理暴力もある。そしてそれは対抗しているようで、客観的には何の意味もない。つまり、敵勢力を減少できていない。

たとえば、今ネットで流行の、右翼っぽい振る舞いをした誰かを、「ネトウヨ」であり、「ファシスト」であると徹底して罵る流儀がある。横から見ると敵を増やすだけの、政治を理解していない実に愚かな振る舞いに見えるが、本人たちは本気で自分をANTIFA運動家と思っているし、敵はファシストだと確信している。それは決して日本独特ではなく、ANTIFAとは、「正義」とは常にそういう運動であることは、すでに見た。説得は無意味である。

実際には「右翼っぽい振る舞い」をした人は、ファシズムの部品でもある、「世間」レベルの常識的規範が好きなだけである。これが日本で「右翼」と呼ばれている人々の正体だ。彼らは統一した政治思想的を求めているわけでもなんでも無いが、「左翼と自認する人々」から見ると右翼なので、相対的に右翼であると確定する。左と右は、単なる相対的な立ち位置であって、逃れることはできない。

この構造を放置しても良い。だがこれを「解決」したいと思った時にはどうするか。

この問題に対して「前提」とアイディアの概略を述べる。

・ファシズムの構成要素の殆どは社会からなくすことは不可能である。それは殆ど本能や自然現象に起因するからである。ゆえにそれ自体を「悪」だとみなすのは無意味である。解決不能であり、無駄だからだ。

・しかし、そのいくつかは実は必要でもなんでもなく、ただの歴史上の構造物なので、削り落とすことは可能である。また、それが行動レベルでの「悪」を解消することにもつながる。

・つまり、予め「悪」をなさないように部品を組み替えた規範群を編纂しておき、さらにそれは政治勢力を自力で高められるような、魅力的なものとする。これを、右翼の名を冠さない、新・中道右派運動として、展開すれば良い。

・ファシズムの構成要素だけが好きな人間は、その勢力に流れ、「ウチ」の論理だけで自発的に「悪」を抑制するはずである。さらに、多数派側を強力に統一できるはずなので、右翼、中道側に強力なメリットが有る。つまり政治的に実行可能である。

以下でこれを述べていく。

1.「ファシズムの部品」のうち、何を残し、何を変え、何を外すべきか?何をつくるべきか?

以上で見てきたように、ファシズムの部品は6つ。ナショナリズム、俗流「社会進化論」、保守主義、権威主義、排外主義、全体主義であった。

これを私は以下のように分類する。

大幅に変更することが不能で、かつ人々が求めているので、多少は弱めても、あくまで中核に据えるべきなのは

保守主義、権威主義、全体主義

次に、人々が求めていて、究極的には抹消不能だが、危険なのでなんとか大幅に変更・代替物を提案すべきなのは

ナショナリズム、排外主義

危険かつ、抹消可能なので、徹底して抹消すべきなのは

俗流「社会進化論」

である。これを以下で見ていきたいのだが。

その前に、ファシズムの「総体」とはなんだったか。もう一度、整理して私の理解を述べる。

「世間」の荒波のなかで、「ソト」に対して結束し、全力戦争により「ソト」に対して徹底攻撃と勝利を追求し、結果として生存する。「ウチ」には自己規律、体制擁護を要求。侵入は監視、排除。勝利と進歩による生存を求める、総力戦・勝利追求体制。

ファシズムは結束主義、と和訳される。

次に新しく求めるのは何か。

「世間」の荒波のなかで、「ソト」に対する全力戦争は疲れるし勝てないため無駄なので、「ソト」には暴力抑制と不服従による生存だけを追求。「ウチ」内には和合と体制維持を要求。また侵入に対しても、条件付きで許可。和をもって貴しとする、専守防衛・生存追求体制。

「和合主義」とでも適当に名付ける。

ただし、何度も言うように、これを人々の良心ではなく、規範とシステム、そしてそれらを守る利益によって構成することが目標である。

2.弱者切り捨ての嘘と真実を排除せよ

まず、俗流「社会進化論」を解体焼却しよう。これ自体は難しくない。ただ、もう一つ重要な観点として、科学的な「社会進化論」も知識としては認めるが、規範として組み込むことは却下する。

どちらも弱者切り捨ての根拠を社会から抹消するためには必須である。

弱者切り捨て、つまり経済、言論、政治力を介した「弱者」への暴力は、ファシズムのなした「悪」の重大なものの一つで、ファシズムと関係ない現代社会にも根強く残っている。さらに、大衆はこれに晒されているので、排除する直感的インセンティブは強力であり、政治の原動力になる。

まず、俗流「社会進化論」は(1)で見たように、そもそも科学的に出鱈目だ。「弱者」を捨てないと社会は必ず負ける、というのはだからロジック的には簡単に否定できる。これで解決?いや、違う。

実は真の問題は科学的な「社会進化論」が規範化されることだ。ってどういうこと?

要するに、「科学的」根拠があって、社会の生存に本当の意味で不利益な人は排除していい、という規範が俗流「社会進化論」の代わりに入ってしまったら、それで詰みなので、避ける必要がある。

これをやりたくなってしまう人々は多い。たとえば、過激な排外主義者は社会を崩壊させるエビデンスがあるので、排除していい、などという主張は西欧アカデミアでわりと人気である。だが危険だ。

これを一度やってしまうと、エビデンス争いで勝てば排除していいというお墨付きがあるので、多数決によって「科学的エビデンス」に合意すれば誰でも排除可能である。それは科学ではない、と正論をいっても無意味だ。

要するに、たとえ社会の生存のための明らかな損になっても無前提に包摂せよ、という規範が必要である。ただし、科学に逆らうのも危険なので、排除ではない別の科学技術での解決を求める。

科学を排除してはならない。だが科学を規範化してはならない。科学は規範ではない。単なる事実認識であり、価値判断の道具ではあっても、絶対の根拠としてはならない。

嘘で誰かを殺すのがダメでも、真実で誰かを殺していいことにすれば、全員が「嘘か真か」の争いの結果で敵を殺害できる。ゆえに両方を禁止することは、良心ではなくシステム上の要請である。

上記に成功すれば、だいぶ先行きは明るい。「ウチ」内での和合に大きく前進である。だが、まだ「ソト」に対する重大な問題がある。

3.団結の物語とシステムを再構成せよ

ナショナリズム、排外主義は、いわゆるレイシズムなどの排除暴力につながるので否定したいところである。だが、本質的には無理だ。

「ウチ」の定義、その根拠となるストーリー、そして「ソト」への対応が問題だ。

法学上の建付け、歴史は今どうでもいい。今求められているのはどちらかというと「宗教」的な物語である。人は何を言われようと、信じたいものを信じる。「真実」を信じさせようとするのは無駄である。

日本でレイシストと呼ばれている人々は何を信じたいのか。なにを守りたいのか。これを理解し、行動のみを変えさせるにはどうすればいいか。

私見では、今レイシストやらネトウヨと呼ばれている人は、単に日本の文化の一部が大好きなだけで、それを攻撃されるのが嫌なだけだ。彼らのやっている他民族攻撃、左翼攻撃は思想に基づかない「反応」「反撃」が反復によって癖になっただけである。民族や思想などどうでもいいと思っている。

ゆえに、文化の絶対保護領域を「ウチ」としてつくって、その内外でのゾーニングを「世間」の返報性のロジック、つまり和を乱すな、という一貫性で縛り、罵倒もそのラインだけ無条件で許可すれば、民族攻撃は自己ルールにより禁止できるはずである。

一応試案を述べる。

まず、日本国籍を持つものだけを日本人と定義する。それ以外は例外なく日本人ではない。DNA、歴史的に正しい意味での民族、などは関係なし。とくに、日本は大和民族の単一民族国家であるとか、そうあるべきである、という物語はなくす。ただし、日本人でなくても、以下の条件を満たせば「ウチ」に入れるべきであり、日本人でも条件を満たさなければ「ソト」としてよい。

条件はなにか。

1. 日本のルーツ、文化と伝統だとなんとなくみなされているもののうち、「ウチ」の構成員が良いと思っているものの保持に賛同すること

2.和合主義者の意味での「ウチ」の構成員を自認し、文化保護以外の他の規範もなるべく守ること

これを実行するものだけを、日本人のなかで「ウチ」「仲間」「和合主義者」と定義する。それ以外は日本人であっても「ソト」であり、彼らは仲間ではない。

上記の基準の下、「ソト」への誹謗中傷、民族、ルーツに対する攻撃は、事実以前に和を乱すので「悪」と定義する。

逆に、上の定義で「ソト」から「ウチ」への攻撃は、たとえなにかの視点で事実による批判でも、和を乱すので無条件で却下してよい「悪」と定義する。それはいくらでも罵倒して良い。

ただし、反撃に使って良いのは和を乱すから無条件の悪である、と言うロジックだけだ。特に他民族攻撃、ルーツなどを疑ったり、攻撃するのはNGである。また、相手が自分も「ソト」ではなく「ウチ」だと述べ、謝罪したら、常に許すべきである。

「ウチ」同士は和を乱しすぎない範囲で、批判してよい。ただしこれも、あまりに和を乱しすぎたら保留する。とくに、文化は棲み分け、ゾーニングが基本。つまり気に入らない文化同士でも基本的に徹底批判してはならない。気に入らないものには関わらない権利があるだけだ。判定は権威と空気で決める。

いかがだろうか?無論、問題点も残るのだが、多民族攻撃だけは無効化できる可能性は高い。あくまで大半の日本人にとっては日本文化だけが関心事である。

4. 保守主義、権威主義、全体主義を「徳」で統一せよ

これはあまり議論の余地がないと思っている。保守主義、権威主義、全体主義を解体できると思っている方が要るかも知れないが、多分無理だ。

というか、これらを本質的に逃れられる人間などいない。逃れているような気がしているだけである。コロナ禍騒動後、この自己認識すらない方には、説得は不可能なのでどうしようもないのだが。

とはいえ、改変はできる。要するに次を要求する。

保守主義、権威主義、全体主義は基本許可する。ただしその結果、弱者切り捨て、または「ソト」への徹底攻撃など、つまり和を乱す行為が発生した場合のみ、それを過程を問わず無条件で却下する。逆に、弱者救済や争いの仲裁、つまり和合のために保守主義、権威主義、全体主義を用いるべきである。弱者の正当性は不問である。偶然の犠牲者 、悪、怠惰、愚かさなども救済すべきである。それが権威の源泉となる「徳」である。これをやらない権威は、「徳」を失っているため、権威も失うべきである。

これだけだ。保守主義、権威主義、全体主義そのものではなく、その結果の暴力を最小化する規範を導入する。これを守るものに権威という利益を付与すれば良い。

たとえば、犯罪被害の弁済、犯罪加害者の更生、治療なども個人で解決するものではなく、国や社会の名士などが徳により金銭、言論で助けてあげる、という古の政治になっていく。これは腐敗と紙一重なので、法で理論付けて一般化するべきなのかもしれないが、専門知識がないのでここで切る。

5. 「和合主義」は可能か?

いかがだっただろうか?だいぶ政治主張、それもいわば新しい中道右派運動、的な割と具体的なところまで来てしまった。嫌いな人は嫌いな主張かもしれない。

これらの「和合主義」は魅力的か?私やあなたにとってではない。今、中道右派より右にいる人々にとってどうか、という点が重要だ。

個人的には、これはなかなか受けると思っている。政治力の強化、矛盾点の削除、なにより争いの停止と実物的な生活救済という、大半の日本人が政治に唯一もとめる物事を単一争点的に規範化しているからだ。

ただ、私は上記のアイディアが好きだから主張したわけではない。あくまで「世間」の分析と、アンチファシズムの解体、ファシズムの再構成を逆算し、独自研究ではあるものの解答を「導出」しただけである。ご不満があれば、別に導出して頂きたい。

結局、いま日本では左翼は「正義」を自認しているため、非対称性により自分の問題を自分で解決するのは不可能だ。「悪」側である右翼・中道連合が問題を解決するしか無い。ただその場合、右翼・中道はますます隆盛して、左翼は勢力として一時的に崩壊するかもしれない。とはいえ左翼は暴力を破棄して一貫性を保つことはできるようになる。そうすれば補完勢力として再構成、その後はメインプレーヤーになることも可能だろう。これが最終的な和合への道のりだと私は考える。

いかがだろうか?皆さんにも同じように、全てを一から考えて頂きたい。そうすれば私の拙い政治提言は不要となろう。

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