カラマーゾフの兄弟、読了

もう随分前から読みたかったドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』上中下(原卓也訳、新潮文庫)を読了した。 今の時代の強みとして、3巻をまとめて一気に読める合本版の電子書籍で読んだ。今読むなら、すべての人に3巻合本版電子書籍で読むことをおすすめしたい。文庫といえども重い3巻を持ち歩かなくて済む便利さはもとより、いつでもどこでも読み継ぐことができて、しかも通巻して読み進められるからだ。

参考までに以下が合本版である。
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(内容とは関係ないが、合本版専用の美しい表紙デザインにしてほしいところである。今後に期待)

さて、もはやその評価も確立している『カラマーゾフの兄弟』について、ここで僕が語るべきことはほとんどない。凄かったとか、傑作だとか、そういった凡庸な言葉しか出てこないからではなく、歴史を通じて世界中で傑作と言われ続けて100年以上経つ小説作品は、やはり本物であるとしか言えず、そんな作品には、すでにありとあらゆる論評が書かれているので、いまさら僕が書くことはないからである。
優れた作品は批評を誘発するが、しかしあらゆる批評を超えるだろう。

単行本が出版された1880年は、ドストエフスキーは58歳であった。まさに今の僕の年齢と同じではないか。58歳に合わせて読んだわけではもちろんないが、この偶然に驚いているというのは、正直な感想だ。作者が執筆し発行した年齢で僕も読めたことは、やはり作品が深く心に入ってくるための幸運な偶然と言い切りたい誘惑にかられる。

何も書くことはないとはいえ、それでも何か書きたくなってしまうところがこの小説の魅力でもあるが、僕が思うのは、そもそも人間の業を描き続けてきたドストエフスキーにとって、人間の本質をひとりだけの主人公で描ききることには無理があると悟ったのではないか、ということだ。そのため、ドストエフスキーは一冊の作品に人間の本質全てを凝縮させる手法として、敢えて多彩な登場人物を多く登場させ、そこに様々な性格付けを割り当て、そのそれぞれの人物たちの立体的かつ重層的な交流を通じて人間そのものを描き出すということを目指したのではないかと思える。
その多面的な人間というものを立体的に浮かび上がらせるために、父と三人兄弟の息子を軸にした物語を組み上げた。この四人に、人間が備えているあらゆる側面を割り当て、その四人がそれぞれとしてお互いに関わり、また、四人と関わることになる多くの人々にも、人間が備えている多種多様な性質が割り当てられ、それら多彩な人間模様が織りなす物語を通して、『人間とは何か』を描き出そうとした。僕にはそう感じられた。

つまりこの『カラマーゾフの兄弟』という小説作品自体が、『人間』そのものなのである。喜怒哀楽、善悪、欲望、正義、偽善、背徳、犠牲、愛、自尊心、嫉妬心、承認欲求、恐怖、排斥心、差別感情、誕生、堕落、そういった人間誰もが備えている様々な特質を、『カラマーゾフの兄弟』という小説作品はその物語に内包させている。

僕はまだ年齢は58歳だが、それなにり様々な小説をいままで読んできた。もちろんこれからもいろいろな古今東西の作品を読んでいきたいと思っているが、『カラマーゾフの兄弟』を超える小説に出会うことが果たしてあるのだろうかという気持ちが芽生えているのは、正直なところである。

様々な翻訳が出ているようだが、なにしろ今回初めて読んだので、新潮文庫版の原卓也氏訳のバージョンしか読んでいない。それに、まだ一度しか読んでいない。他の訳と比較することは出来ないが、原卓也氏の翻訳は実に素晴らしかった。僕がここまでのめり込めたのは、原卓也氏の翻訳によるところも大きいと思っている。

20230809
Nori