【小説】いかなご

 JRから見える塩屋の海は、一面キラキラと輝いている、光の絨毯だ。空が青ければ青いほど、船は眩しく映る。

 乗組員には家族がいる。遠くの海へ行くと、三ヶ月は帰れない。待ち人はその間、海に臨む社宅に住みながら、家事に育児に井戸端会議に、強がる昼から寂しい夜を過ごして待つ。

 だからといって心が離れることはない。なぜ結婚してしまったのかとしばしば思いながらも、妻としての道を守る、海の男も逞しい漢だが、その女もそれ以上にまた漢なのだ。

「今時、男だなんて古いわよ。時代は女。男ができる仕事を奪えばいい。」

「でも、香苗。流石に漁師なんて、女にはできないんじゃない?」

「大丈夫よ、だっていかなごなんて、小さいんだよ?余裕に決まってるでしょ。」

 毎年垂水の海では、いかなごの漁が盛んに行われている。三月にもなると、魚屋には新鮮ないかなごが並び、垂水のマダムたちの行列ができる。近年では不漁が続き、その価格も高くなったが、地元の、特に高齢者の間では未だ、いかなごの釘煮は自分達で作るものだという意識が根強い。

 案の定、釘煮を炊く匂いが、垂水の高台に建つ団地でも漂い、ご近所に住む女友達同士で、出来た釘煮を交換し合う。そしてお互い、あなたの釘煮は美味しいね、と品評を交わす。いかなご漁の操業期間が長ければ長いほど、井戸端会議の会話は生産性を増す。

 帰宅すれば食卓にいかなごの釘煮が置かれてあり、孫である香苗は、生姜を避けながら、ちびちびといかなごの部分だけを食べていた。

 そんな祖父母が介護施設に入所する頃だった。いかなごの不漁が地元の新聞に載るようになったのは。理由は、明石海峡の水質改善だという。綺麗な海になったのに、漁獲量が減少したのはなぜ、と思うが、それが自然の摂理であれば仕方ない。香苗は、どうにかこの事態を打開できないものか、と考えた。それが、漁師になる、という決意表明だった。

 とはいえ、香苗には生物学を専攻するほどの能力もない、理系というよりは文系だ。祖父が海の男だ、といっても、漁師ではなくて、貨物船の乗組員なだけだ。祖母のように、いかなごを含めた料理が好きなわけでも得意なわけでもない。ただ、幼い頃から食べていたいかなごの釘煮が、ただ衰退していくのを見守るだけということに、失われていくことに対して、何もできない焦ったさを感じていたのだ。

 

 香苗はまず、いかなごの釘煮の歴史について調べてみた。なるほど釘煮は、1980年代から一般家庭に広まったのだ。それから2010年代までは漁獲量は変わらなかったが、半ばになると一気にガタ落ち、20年代には1日で漁を切り上げる年も出てきたというのだ。

 漁師になると言った手前、引き返すことはできないにしても、何かもっと、大きな視点から地場産業を守る必要性が出てきたことは、言うまでもない。

「いかなごって、埋め立てに使うのに最適な土に住んでいたんだって。」

「ふーん。」

「だけど、それも少なくなってしまったんだ、環境破壊の一例だよね。」

 香苗は、とりあえず学内の友達に、いかなごの話を混ぜてみた。自分には力はないが、もしかすると人脈を伝って、良い人を紹介してくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱いていた。

 しかし、それは叶わなかった。香苗の求める答えを得るには、通っている大学のレベルでは、とても解決できる見込みはなかった。香苗のあくまで解決したいのは、いかなごを絶滅させず、さらにはいかなごの漁獲量を増やすことだった。

 そうした問いを持ち込むところもなければ、問いを解決しうる能力を身につけるほど、自惚れるほどの才能がないことはわかっていた。

「解決したいけど、できないんだよね。漁師になったとしても、いかなご漁は1日で終わっちゃうし。」

「そうなんだね。」

「何か別のこと目指そうかなあ、ねえ、どうしたらいいと思う。」

「知らないよ、勝手に考えなよ。」

 菜月は、香苗のいつも大言壮語しながら、それなのに自分を信じ切れない人柄を残念がった。菜月には、とても大きなことをしようと思わない。平和に生きたい、それだけでよかった。香苗は、そんな菜月の考えを理解していたが、理解していないかのように、時折問いかけた。香苗にとって、数少ない親友であり、二人が協力し合って何かを成し遂げること、それによって菜月の心を変化させたかった。人間は、何か大志を抱いて生きるものだ、という香苗の考えは、彼女を孤独にさせていた。その解消のために、菜月を仲間に引き入れたかっただけかもしれない。

「じゃあ、社会で何か成し遂げたいとかないわけ?」

「ないよ、普通にしとけば良いじゃない。」

「呆れた、じゃあもう帰る。」

「帰るって、そんなことまでしなくても良いじゃない。」

「わかった。」

 菜月は、香苗のこうした癖に付き合うのを、心の中では面白がっていた。だが、自分とは違う、香苗の血気盛んさには、羨ましくもあった。

 こうして香苗は、菜月と一通り、いつも通りと言えるやり取りを終えて、帰路についた。帰宅すると、ベッドの上に寝転がって、スマホを弄り始めた。いかなごについて、昨日から調べていたものの、まだ引っかかるところがあった。自分ができるのは、果たして研究か、漁師か、もしくは別の何かか。水産業を守る会社への就職や、あるいは起業、あるいは政治家など、実現可能性を捨て、様々な角度からのアプローチを考えた。そのどれもが、しっくりはこない。

「自分には無理なのかなあ。」

 呟いては検索し、溜息を吐いては天井を仰いだ。大学の課題をこなしながらも、自分の人生は、どこへ繋がっているのか、不安と興味が入り混じた、そんな気持ちだった。

 

 香苗は、大学の講義を出席し終えると、一人研究室に向かった。専攻している東洋史研究室の先輩を訪ねるためだった。だが、あいにく不在だったので、研究室にある一台のパソコンの前に着席し、ネットサーフィンを始めた。

 とりあえず、昨日気になった「起業」というワードについて、検索窓に入力した。「起業 やり方」、「起業 大学生」、「起業 水産業」と、どんどん具体的になっていく。だが、昨晩好きなだけ検索したので、ネットの薄っぺらい知識よりも、自分で考え抜いた知識や知恵を欲しがっていた。自分がたとえ、他者が、であっても構わない。そのためには、人に会うこと、これが叶わないのならば、やはり本屋か図書館だ。香苗は、パソコンの電源を切り、研究室から飛んで出た。何か、自分にできることがあるかもしれない、そう思うとドキドキした。

 自転車を漕いで数分、キャンパスから目と鼻の先に本屋はあった。中は二階建てとなっていて、大学生のニーズを満たす本がズラリと揃っている。香苗は、一階のビジネス書コーナーで選別を開始した。有名インフルエンサーやYouTuber、新手の講演家や著述家の本は却下で、伝統的な、時の試練に耐えた本を主に目利きしていた。

 それでも興味の持てる本は見つからなかったので、水産業エリアへ移動、次に郷土史エリア、最後には文庫本エリアで、ただ本を見ているだけになっていた。

「やっぱり一過性のものだったのかなあ。」

 香苗は、若い時期特有の自分探しごっこをしているのか、あるいは真剣に自分の将来を模索しているのか、わからなくなっていた。これからは就活もある、結婚もある、ライフイベントが多く、その一つ一つを戦略的に考えないといけない時期だ。

もういいかな、と本屋の外に出た時、iPhoneの通知が鳴った。先輩からだ。

「こんにちは。何か用ですか。」

と来たが、もう晩御飯を食べようと思っていたので、返信を迷っていた。すると続けざまに、

「明日は研究室にいるので、何かあったら声を掛けて下さいね。」

と、こちらの気持ちを悟ってでもいるかのように、的確な返信が来た。香苗は、ありがとうございますまた後日伺います、とメッセージを送り、スマホをポケットに閉まった。

 本屋の外の駐輪場は、黄昏時だった。風はまだ三月で、暖かな空気の塊がモコモコしていた。

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