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喜怒哀楽+怖

笑ってみる。
怒ってみる。
泣いてみる。
弛緩する。

この3つを、日々習慣として、
4年くらい過ぎました。

とあるワークショップで
「これはいい。大切だ」と思って
実践を始めたのですが、
胸を緩めるために必要なことみたいです。

「みたいです」とか言って、
4年も実践してるんだから、
実感してるんですけど。

笑うと、胸の下の方を使います。
怒ると、そのちょっと上がこわばります。
泣くと、その上。
いわゆる胸に手を当てる場所。「胸」です。
そして上の方、鎖骨のあたり。
楽な呼吸。

試して、自分で感じた感覚は
教わったこととは違うし、
いつも同じわけじゃない。

でも、兎角、頭ばっかり使う近代。
チャクラとか、よくわからないけど、
仏教で言う
「仏法僧」
「胸頭肚」のどこを主に使っているのかに
気を使っています。

これは「胸」想う根を扱うワーク。

ライブ前に、緊張して自意識が広がるくらいだったら
これをやってます。

要は一見「滅茶苦茶」になってみるってこと。

いったんスイッチが入ったら
頭で制御なんて出来ません。
頭はただ眺めているだけになります。

上に書いた理論なんて、メソッド、
やり方、方法なんて、
どうにもならない。

ただ命が導いてくれる感じ。

でもけっこう
「僕」のケースみたいのはあるかもしれない。

僕は「喜」、
わざと笑いを始めると、
そこへ行く前に、
「哀」泣く方へ流れてしまうことが多い。

そしてむせはじめ(ごほんごほん)、
嗚咽に変わり、胃がひっくり返りそうになる。

嘔吐なんてしないことはわかっているので
存分にやる。
嘔吐物があるなら、それはそれで出しちゃおう。
出ないから。

そこで、今回、大きな発見があったのです。

ほんと、シェアしにくい、僕だけの実践の説明を
長々と書いてしまい、恐縮です。

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喜怒哀楽の他に「怖れ」というものが在る。

これは忘れていました。
これは何なんだろう?

幸いにも、平和な日本で生まれ育ち、
近隣で経験する人がいるにも関わらず、
当事者にならなければ経験することの出来ない孤独。

忘れてた。でも、
今後の人生で出会うかもしれない経験。
その後、命を失うか、生きて帰ってこれるか
わからない経験。

経験のない、蹂躙される感情を創ってみました。

韓国映画の過激でグロくてリアルな
理不尽な拷問を受ける当事者のように。

今も現実に行われているらしい
ウイグル自治区で虐殺されるように。

起こりえる現実なんだ。
これからの日本では
このくらいの経験は想定しておいた方が良い
とも想う。

そして、理想を求め、創ることが出来るのも
僕ら「人」であるということも。

*************

逃げられない、逆らえない環境。
足を切り落とされる。
爪を剥がされる。

痛み?
痛みは僕のもの。

経験がない?
そこで味わえばいい。

何なんだろう?「怖れ」。

「哀」と「怒」を行き来する混沌。

この命に対する執着?

この肉体に対する執着?

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失うことなんて何もない。
ただこの身体に訪れてきた現実を
味わえばいい。

恐れも、悲しみも、怒りも、歓びも
すべて通り過ぎてゆく。

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夕方、車を運転しながら
「頭」を使って考えていた。

「怖れる」ってどういうことなんだろう?

響きを辿ってみた。

「お」
おかあさん、おとうさん、お菓子、おじぎ、
老い、負い、生い立ち、おい・・・。

「お」の響きは
けっこう胸の下の方を響かす。
「身」「肚」に近い、
腑に落とす感じだ。

そして何と言っても「御」ですね。
他にも「恩」「音」「温」「怨」。

「そ」は?

空、添う、沿う、逸れる、削ぐ・・・。

なんか「縁(へり)」を現すそうな感じがする。

*************

御を削がれるような感じかな?
御に添われる感じかな?

「おそれる」って受け身だけど、
自動詞的には
「おそう」「襲う」なのかな?

御に添う。
怨に添う。

御を削ぐ。
怨を削ぐ。

でも、
言葉にしきれない
「怖れ」に対する
音霊音霊の思念はわかったような気がする。

総じて
「何かが変わるとき」
そんなニュアンスなのかな?

*************

一番、現代の言葉的には
「御を削がれる」ということが
「怖れ」ではないかと気づいたのでした。

ネガティブ思考で、
悪い現実ばかりを創り出すのは
みんなに「もうやめよう」と言いたい。

でも、

今、本当に、確実に存在している
虐待、虐殺、蹂躙、暴行に
目を背けるのもやめよう。

だって、

こんな言葉自体が存在しているのだから。

これらの言葉通りの「身体感覚」を
ぜひみなさんも、各々静かに
自由でいられるところを見つけては
創り出してほしい。

全ては在り、経巡り、消えて、
また現れます。

何かは変わり続けるものだから。
「怖れ」は在るのだから。

怖れないで、味わってください。
諦めて怖れてください。

「喜」も「怒」も「哀」も「楽」も
言葉で存在する全ての存在に対して感じ、
味わってください。

なんでこんな強制的なお願い口調なのかというと、
本当に、みんなでもっと賢くなって、
より幸せな社会、世界を創りたいから。

僕らは僕らで
どんな交響曲を奏でるのか、
一人の自立した演奏者として、
曲の響きを創っていきましょうよ。

仮に指揮者が誰であれ、
彼も演奏者としてのひとつの役割。

地球交響楽団です。

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久しぶりに長文を書いてしまいました。
僕はヨガとか、スピリチュアルなことを
生業にしているわけでは全然ないので、
今日書いたことは、
何のプロモーションにもなってません。

どちらかというと、
音楽家のアイデンティティで喜ぶ人種です。

2020年6月に、半年ほどかけて完成させた6曲、
よかったら聴いてください。

まあ「」なんて、
今日書いた内容のエッセンスがつまった詩かも・・・。

P.S.
「あなたは虐待とかされたことがないから
こんな無責任なことが言えるんだわ!」
なんて非難されそうな気がしたので、
そんなヒステリックな被害者さんがいたら、
その痛みはあなたのものであって、
私のものではない。
と、断っておかないとな、
と思いました。

もし誰かに何かされた人が、
心に傷を持っているなら、
僕もそのくらい持ってます。

それがどんなことか、僕が語ったら、
「あらまぁ可哀想」と泣いてくれるかも。

その哀しみはあなたのものであって、
その想像する怖れはあなたのものであって。

それがどんなものなのか、
お互いの自己責任で、
かけがえのない、唯一の命として、
誰を求めるでもなく、
演ってみればいいんです。

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