「劣性なる者」に「天才」は宿る
頭が良くなりたいと想う。
よくそんなことを言っている。
理解力の早い人が羨ましい。
あれもこれも出来るように見える。
知識が豊富。
たくさん本を読んでいる。
スペックが違うなぁ・・・
って人がいる。
たくさんの知識と知恵を以て
愚民の指導にあたる人がいる。
「いや〜すいません」
と思いつつ、
そんな人の苦悩を考える。
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自分はたくさんのことを知っている。
あれも出来るし、これも出来る。
なんでお前らはこれを理解出来ないんだ?
簡単なことだろ?
なんでここまで俺がやらなきゃいけないんだ?
そんくらい
自分で出来るだろ?
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そんなふうに
もしかして想っているのなら、
僕にも思い当たる節がある。
となると、
僕は「優秀」な人間なのかもしれない・・・
子どもを相手に。
老人を相手に。
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出来ないこと、あるよね?
出来ないことばっかだよね?
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結局、「優秀さ」を発揮できるのは、
その人の「優秀さ」を求める
「劣性なるもの」の支持によって成り立つ。
そして、「劣性なる者」が
何らかの「天才」を求めた時、
その「劣性なる者」に
「天才」が宿る。
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何らかの講演や座学で、
教え、授ける立場の人が
「何か質問とかありませんか?」
と質問する。
僕の中に質問、疑問が浮かぶ。
手を挙げて、答えを求める。
その答えに
納得するか、しないかは、
僕が受け入れるか、受け入れないかに
かかっている。
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いつだったか、
知り合ったお坊さんのツイートに
「問いが生まれた瞬間に
答えはもう出ているものだ」
みたいな言葉に、
とても納得した覚えがある。
「答え」「応え」。
どちらも同じ意味なのだろうか?
もちろん、
誰かに質問を投げかけて、
そこから返ってくる「応え」を
参照にすることは
有意義だと思う。
でも、
つい、勢いで手を挙げてしまって、
もう答えが出ているのに
質問をして、
茶番にしてしまった経験は数多く・・・。
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聞きたいことがある。
その声を辿ってみる。
何でそんな質問が浮かんだのか?
それは
こんな答えを求めて生まれた質問だった。
その求めた答えを確かめる。
新たな視点が加わり、
それが間違いだったと気付く。
間違いを認めた僕は、
新たな答えに
納得をする。
・・・というだけだ。
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全てを持つことは出来ない。
多くを持っている人、
足りて生きている人は、
足りずに生きている人の
立場にはなれない。
持たざる者、
足りていない人は、
満ち足りた
羨むような人の立場には
なれない。
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そしてそれは、
相対的で、気分次第で、
どちらの立場に
なることも出来る。
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需要が生まれた時、
供給できる立場の方が優秀なのだろうか?
需要が生まれた時ってのは、
夢や理想が生まれた時だ。
何かを求めた時、
それを与える人が現れたら、
それは嬉しく、
感謝すべき事柄だろう。
一方、供給する側の視点は・・
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いろんなものを持っている。
いろんなことを知っている。
それだけ。
供給者に、「需要者」の要素が
無ければの話ね。
供給者が、
本当に何も求めていないのならば、
需要者のエネルギーだけで
世界は動いているのではないだろうか?
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教え、授け、与える人は、
教わり、授かり、与えてもらいたい人を
求めている。
求められる人は
求める人を求めてる。
求める人は
与える人を求めている。
馬鹿な奴らが
優秀者を求めなくなった時、
優秀者は「優秀者」でいられなくなり、
立場を落とすことになる。
何を「優秀」とするかは、
社会としては
時代によって移り変わるし、
個人としては、
その時のアイデンティティの
「求め」によって
移り変わる。
「劣化した社会」と
誰かが呼ぶのは、
いつもの馬鹿な人が選ぶ
「優秀者」の基準が
変わってきたってことだろう。
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各々、みんなが、それぞれ、
「自分」に湧き起こる
正直な「想い」を
大切に生きてくれたらいいな。
相手の醜さを罵ったり、
自分の醜さを嘆いたり。
そんなジャッジをしているのは誰か。
逃げる必要はない。
欺く必要はない。
誰にも言わなくていい。
誰に伝えなくてもいい。
伝わらないから。
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羨ましい人がいる。
許せない人がいる。
馬鹿な奴がいる。
クズで溢れてる。
と、僕が
僕で生きる世界を
そう映してる。
わかった。
では、
これからどう生きようか?
この世界の主人(あるじ)の「僕」よ。
どんな意志を持って生きようか?
出逢った「君」と響き合い、
どんな世界を創っていこうか。
ね♪
うたが、音が、言葉が、 もし心に響いてくれたなら サポートいただけたら嬉しいです。