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唄いたい詩を歌えていること

今日も、ツイキャスライブで
崖の上の洞窟になった地蔵郡から
ウクレレを弾いた。

大体、ここ最近、
リアルタイムで見に来てくれる人は
多くて「二人」だ。

でも、
もしかしたら
リアルで何処かで
お会いしているのかもしれないけど
基本、その方々個人の
noteや、ツイキャスのタイムラインで
知ってくれて、
気にかけてくれて、
気に入って見てくださっている
のだろうと想うと、
とても有り難い。

付き合いではない。
という事実が有難い。

当たり前だけど、
でも、当たり前以上に、
この「仕事(ライブ配信)」のことは
オフラインの生活上では
誰にも話すことがない。

恥ずかしいのもある。

こんなお金にもならず、
ほぼ誰も聴いていない行為を
「仕事」として、時間を決めて
労力を割いて、優先させている生活は
何の自慢にもならないし、アピールにもならない。

絶対に
見ようとして見た人にしか伝わらないし、
見る、聴く意欲の無い人に、
たとえ「武道館でコンサートしてきました」と、
アピールしても、
「武道館でやれる人気者」
という認識に価値が付くだけで、
その人の心に
僕の詩が何らかの影響を与えられる
わけではない。

その、例えば山を歩いたりしているような、
その瞬間ごとの出逢いの中では
無粋な、どうでもいいことだから。


唄うことは
誰かに届ける意図と、
自身が宣り、創るためとが
ある。
誰か(彼の身 かのみ 神)に届ける意図
でカメラを回すのに
誰もその先にいないと、
それでもやっぱりなかなかさらに
精神力が必要になってくる。

*******

イベントや、ライブ企画で
「どこかで歌わせてください」
という姿勢も、
「身につけた音楽の知識や技術を生かして
ニーズに合った仕事をするので、
仕事くださいorz。

という姿勢も無くなった。

少なくなった。

拒否してるわけじゃないけど、
求めても、仕事は来ないし、
何らかの仕事の話が来ても、
それは別に
僕がやりたいことではないのだ。

やってほしいことに
応えるだけだ。

でも、
僕の力で、
何かお役に立てるんだったら、
それこそ金額の問題ではなく
お力になりたい。

と、思っている。

要は、
お金がもらえるからを理由に、
やりたくもないし、
僕がやる必要も感じない
誰かがやるならいいよ。
便利だったら使わしてもらうかもだけど。
(道路工事とか)
って感じの仕事だったら
他を当たってほしい。
(今はね…
今後ともこれで生きていけたらいいな)

でも、
この問題を解消すれば助かる。
必要とする人がいて、
必要なことは、
専門分野だろうと、
そうでなかろうと、
住民、市民として
参加しようと思っている。

お金は要らない。

山が崩れて、誰かが埋まっているのなら
自分でできること
全てで協力したい。

道を復旧させる
土建屋さん達には
本当に尊敬の念を抱きます。

それぞれが
持っている力を開いて、
みんなで切り開く社会は
素敵に思えます。

そんなことに巡るツールが
本当に「お金」になり得るなら
いいですね。

*******

お金をけっこう、
いろんなところで請求されるけど、
そんなにこちらにお金が
入ってこないんですけど・・

って、
現代の日本では
けっこう多くの人が
感じているんじゃないかな?

「仕事が回らないから
値上げしました」
って話も
よく聞くけど、
値段が上がっても買いたい。
買わざるを得ないって人が
消費者になってくれて
成り立つ人はそれをして、
値上げすると
さらに買ってもらえなくなるなら
値上げできない。

そんな僕らは
値上げされても
買わざるを得ない値段の商品の消費者に
ならざるを得ない。
入ってこないけど、ならざるを得ない。

とか、
そんな話をよく聞くけど、
もう
お金に価値基準を預けるのって
不当だし、
やめれないかな・・・
なんて思っています。

*********

↑これも言いたかったことなんだけど、
言いたい軸が
変に拡がりだしちゃったね。

ツイキャスライブ・・・

お金にもならないし、
フォロワーの数字が伸びるわけでもない。

でも、
唄いたい詩が歌えています。

「唄いたい詩」というのが
どういう意味を持つのか。
というと、

僕がどこかのタイミングで
紡いだ「想い」を
言葉で綴って、
唄うと、
その、あの時の「現実」が
蘇る。

「幸せだ〜!」と、
身振り手振り、
表情、そして、表した言葉によって
「幸せ」に戻るための手段。

「寂しい」も、
「悔しい」も、
「切ない」も、
「哀しい」も、
唄って、現したいんだ。

「絶望」すらも、
唄って、現したいんだ。

*********

誰かの創った曲を歌って、
自分とは違った現実を
味わうのも
「豊かさ」としては
ある。

でも、
それだったら、
その他者から与えてもらった詩を
インストールして、
自分の人生における味わいとして
アウトプットしたい。

すると、けっきょく
自分の詩になってくる。

*******

もし、
誰かの曲を唄って、
そっちの方が「仕事」になるんなら、
「仕事」として、
ちゃんと労働時間を守って、
ライフワークバランスを調整したい。

でも
幸か不幸か、
幸いにも、
その誰かの「詩」が
(「詩」は抽象化されていて、
何らか他者から突きつけられる
「価値」や規律も「詩」に含まれる)
確かな「仕事」となる保証はなく、
自己責任となるのが「人生」なので

好きにやらせてもらう他ない。

********

「ああすればいいよ
こうすればいいよ」と、
いろんな人の声を聞いて、
それに見合う振る舞いが
できるように
努力してきた。

おかげさまで
角は取れ、
技術も向上して、
嫌われない振る舞いも
身に付いた。

と思う。

で、
何が得られたか?

「自信」が得られた。

自ずと信じたように
振る舞えるようになった。

********

「根拠のない自信」と
よく言う言葉がある。

でもよく考えて。

「自信」に根拠は要りますか?
何らかのデータや数値が根拠だったら、
それはもう
すでに「自信」ではなくて
「他信」でしょ?

*******

まだまだ
きっと大きな「自信」に
なり得てないから、
こんな風に、
言葉を吐いて
確かめようとしてしまうのだろう。

もっと自信を持って、
静かな心で、
黙々と、行くべき道を
歩きたいものだ。

でも、
この「心の騒がしさ」が
今、僕が僕として生きて
味わっている「経験」
なんだよな。

唄いながら
見上げると
目の前に
首を落とされた
お地蔵様が
何体も在った。

明治の廃仏毀釈で
首を落とされて、
100年あまり経っても
その姿を晒している。

「仏」って何だっけ?
と思って、
想い描いた僕の心に
「仏とは」なイメージが浮かぶ。

想う人がいるから
「仏」は現れるのかもね。

そう思った。

うたが、音が、言葉が、 もし心に響いてくれたなら サポートいただけたら嬉しいです。