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純愛ラプソディ(仮) 五

お湯を沸かしながら、少しホッとしていた。私への追及も緩んだし、課長が私たちのことを知っているかも考えなくてすむ。いつか直面するとしても、今は勘弁してほしかった。

「コーヒーでいいかな、インスタントだけど」返事がない。「ねえ彩花、コーヒーでーー」振り向くと彩花の姿がない。あわててリビングへ戻ったが、彩花はどこにもいなかった。「ちょっと何、どういうこと……」

やかんのお湯が沸く。火を止め、インスタントコーヒーをカップに入れようとして、手の震えに気づいた。「やだ、どうしちゃったんだろう」左手で震えを抑えようとするが、抑えるはずの左手も震えている。彩花、どうしちゃったのかな。どこに行ったのかな。どこに、と言えばアカネも。なんで家にいないんだろう。いつもこの時間はいないのかな? たまたま帰ったから気づいただけ? そうかもしれない。でも違うかもしれない。どうしよう、どこかで事故に遭ってたりしたら……。予測不能なことが続いてもう限界だった。

「ただいま」ーー彩花? 玄関へ急ぐ。「さっき階段の下で会ったの。この子がアカネ?」彩花はちょっとバツが悪そうに笑って、その腕にはアカネが抱かれていた。「もうー、おどかさないでよ。突然いなくなるから心配したじゃん!」「それって私のこと? それともアカネ?」「どっちもよ!」大声を出した私に、アカネが「にゃー」と鳴く。「おいで」両手でアカネを抱きかかえ、心配したんだからね、と言ってもどこ吹く風。それでもかわいいと思ってしまう。あらためてアカネの存在の大きさが身にしみた。

「インスタントコーヒーだけど」アカネを抱いたままキッチンへ行こうとすると、「ごめん、ジュース買ってきちゃった」と彩花。「黙って行っちゃってごめん、途中に自販機があったの思い出して」そうだったんだ。「じゃあそれで、帰ったらアカネがいたのね」「うん」わかってみれば、なんてことない真相だ。でも真相がわかるまで、長くつらい時間だった。ほんの数分なのに、数時間にも思えた。さっきの彩花を思い出す。もしかしたら……。

リビングの椅子に腰かけ、私はコーヒー、彩花はジュースで乾杯。アカネは二人の足元に寝そべり、毛づくろいをしている。「ねえ彩花、さっきのことだけど」「ん?」「猫のこと、私に聞いたじゃない? あれってもしかして」彩花はうなずいた。

「私も猫を飼っていて、でもいなくなっちゃったの。だからはる香の猫かなって」「いなくなったのはいつ?」「2週間くらい前かな」「貼り紙とかした?」「もちろん。でもまだ……」「どんな状況だったの」「……」彩花は何も言わず、ジュースを飲んだ。しばらくして彩花が声を発したのと、アカネがあくびしたのが同じタイミングだった。アカネのあくびに気をとられ、彩花の言葉が聞こえなかった。

「……たの」「えっ?」そのときの彩花は、しまった、という顔だった。意を決して発した言葉が誰にも届かず、もう一度言うなんて無理、と思っているときの顔。「ごめん彩花、何だったの」彩花は首を横に振り、「なんでもない」と言った。「じゃあ行くね」「えっ、もう」「だって私は半休だもん。会社行かなきゃ」「そっか」「また明日ね。課長には今日休めば大丈夫って言っておくから」「わかった、ありがとう」

彩花は立ち上がり、アカネをひとしきり撫でてから玄関へ行った。「じゃあね、お大事に」「課長によろしく言っておいて」課長、と言ったら声が裏返った気がしたけど、彩花は何も言わず、「まかせて」と笑った。

階段下まで送ると言ったら、いいからアカネとのんびりして、と言われてしまった。彩花がいなくなった部屋は、来ない彼を待っていたときよりも、広くてがらんとしていた。

(『純愛ラプソディ(仮)』六へ)

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