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純愛ラプソディ(仮) 四

「そういえばさ」彩花が急に振り向いた。「だいぶ顔色よくなったね」「私?」「ほかに誰がいるのよ」まあ、たしかに。「さっきは真っ青な顔してたもの。まるでこの世の終わりみたいに」そんなにひどかったんだ…。「本当によかった。安心したわ」「ありがとう」

彩花は前を向いたまま歩き続けている。でも何か、言いたいことを言おうかどうしようか、悩んでいるようにも見えた。「何があったの?」だから突如発せられたこの質問にも、どう答えるべきかわからなかった。

「課長も心配してたんだよ、あんまり顔色悪いから」「課長が?」「そうよ、有給取ってもいいからって。急ぎの案件もないし」何があったのか。答える代わりに、聞きたいことがあった。課長がふだん私をどう評価しているか、夫の不倫を知っているのかいないのか。

それを聞くためには、すべて話さなくてはならない。彩花が答えを持っているかはわからない。むしろすべてを聞いた彩花が私のことをどう思うか、一緒には働きたくないと思うのではないか、そう考えると怖くて仕方がなかった。

正社員と契約社員。立場は違っても私を仲間と思ってくれている。私にとっても、彩花は大切な仕事仲間で、大事な友人。結婚前は休日にも会っていた。今も会いたいけど、旦那様との時間を大切にしてほしいから…。

がく然とした。課長から夫婦の時間を奪っておいて、彩花にはその時間を大切にしてほしいだなんて……。

やはり何も話さずにおこう。でも彩花は聞きたがるだろう、何があったのか。失恋した話はしてもいい。不倫だったことも。でも既婚者と知らなかった、騙されていた、そういうことにしておこう。

アパートの外階段が見えてきた。アカネの姿はない。いつだったか、階段の下で帰りを待っていた。玄関前にいたこともある。彩花から少し遅れて外階段をのぼると、足音が重なってよく響く。教会の鐘の音みたい。のぼりきってもアカネはいなかった。

鍵を開け、中へ入る。「お邪魔します…」彩花が遠慮がちに言うので笑ってしまった。「変なの、何度も来てるじゃない」「そうだけど久しぶりだし、結婚してからは初めてだから」「そっか」彩花が結婚したの、三年くらい前だったかな。旦那様は同じ会社の人だと聞いた気がする。でも会社を辞めて、専業主夫になったんだったかな…。

スリッパを出し、アカネを呼んだ。ただいま、と声をかけても何の反応もない。「だいぶ早いけど帰ったよ。アカネ、いないの?」「アカネって?」そうか、彩花は知らないんだ。「猫を飼い始めたの。かわいいんだよ、このくらいの大きさでー」「猫?」彩花が声を上げる。「何色? 種類は?」「えっ、白…だけど。種類は、わからない。雑種?」「いつから飼ってるの?」「ちょっと何、怖いんだけど。大家さんにはちゃんと断ったし」「いつから飼ってるの?!」「えっと、一年くらい前、かな……」

彩花は見てわかるほど肩を落とし、深いため息をついた。「どうかしたの?」と聞いても何も言わず、繰り返しため息をついている。「とりあえず、お茶、入れるね」彩花をリビングに残し、キッチンへ向かった。


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