猫を棄てる感想文・偶然というあやふやなものと必然というものの上にある存在

「猫を棄てる、父親について語る時」は、父と、猫を棄てて来たのに、その猫は先回りして家で待っていたというエピソードから始まる。
このエピソードは、寺の息子として生まれた村上春樹氏の父が養子になることも視野に入れてよその寺に預けられたこととリンクしていて、その子供時代の心の傷が作品全体を通しての空気を作っている一つのキーとなっていると感じた。

春樹氏の父、村上千秋氏は、手続き上の手違いで一度目の出征をしてから、生涯に三度出征して、生きて帰ったことにより春樹氏が生まれた。
春樹氏の母は、婚約者が戦死して、その後千秋氏に出会い結婚した。
そのような偶然の積み重ねがなければ、僕は生まれなかったし、数々の作品もこの世に存在しなかった、と書かれている。
父親が戦死しなかった偶然、母親の元婚約者が戦死した偶然、それらは、一つ何かが違えば、二人は出会わなかった、というあやふやなものの上に成り立っているにも関わらず、二人が出会い春樹氏が生まれ、数々の作品がこの世に在ることは、奇跡的な必然に思える。
それらの作品群がなければ、わたしの人生も違ったものになっていただろうし、ここでこの感想文を書くことはなかっただろう。

人の存在とは、奇跡的な必然によって生み出されるのだという反面、偶然というあやふやなものによって左右される。
必然とあやふやは、まるで対極のように見えて実は同じものの裏表でしかないのだと感じる。
私自身も父と母の出会いの必然性と偶然性の賜物として存在している。
人生で起きた様々な出来事も、人との出会いも、すべてそれらのあやふやで必然的な力によって成立して、私の人生というものがここにある。
それを思う時、いかにも私の存在というものがあやふやなものの上に成り立つ心もとないもの、というように感じる。

父の千秋氏は、三回の出征で生き残り、その間に亡くなった仲間の兵士達、そして亡くなった敵の中国人、あるいは目の前で殺された捕虜の兵士のために祈り続けていた。
それもまた、偶然に生き残ってしまった自分自身の存在の必然性について向き合っていたのではないか、猫を棄てることが猫を殺したことにはならず、生きて帰ってきてしまったこと、その生き残った猫にどこか自分を重ね合わせて、感心から安堵に変わるという感覚を持ったのではないか、と思われる。

木に登った子猫が泣き続け、それを棄て置かざるを得なくなり、翌朝にはどうなったのかもわからぬまま消えてしまうエピソードも、そのあやふやさが私達の存在や人生のあやふやさと重ね合わせることが出来るように思う。

最後に、春樹氏が父から中国兵を斬首して殺したという話を聞いてトラウマになったというくだりを読んだ時、「ねじまき鳥クロニクル」に出てくるロシア人将校が日本人兵士を惨殺する(あえて内容は書かない)場面があるが、それはこのトラウマとかなりつながっているのではないかと思った。
「ねじまき鳥クロニクル」を読んだ後、その暴力的な場面が映像となって私の記憶にこびりつき、しばらくショックから立ち直れなかった。
村上春樹氏は、自分が父親から語り継がれ、引き継がれた歴史を、読者がトラウマになるようなモチーフとして、引き継ごうとしているのではないかと感じた。

年表のように綴られた千秋氏の 部隊の変遷などは、歴史が苦手な私には少々読み辛くはあったが、そこを飛ばして読んだとしても、いろいろな示唆に富んだ内容だった。

今回の感想文を書くにあたっては、さっと二度ほど読んだのみなので、また日をあけて読み返すと、新しい発見がまたありそうな気がする。


#猫を棄てる感想文
#村上春樹


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