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『マチネの終わりに』第五章(4)

 ここ数年、ロドリーゴ国際ギター・コンクールやGFA国際ギター・コンクールなど、出場した世界の主要なコンクールすべてで優勝しており、一部では早くも、「四半世紀に一人の天才」などと喧伝されていた。蒔野も、その若者の評判は耳にしていたが、今回マドリードに来るまで、実際に演奏に触れたことはなかった。

 平日の午後の客の疎らな小会場で、蒔野は知人のギタリストらから少し離れて、独りで彼の演奏を聴いた。そして、最初の曲のほんの数小節だけで、その才能に驚嘆し、ほとんど不穏なと言うべき胸騒ぎを覚えた。

 律儀にセゴビア所縁の曲でまとめられたプログラムで、特にタンスマンの《カヴァティーナ組曲》と《スクリャービンの主題による変奏曲》は、蒔野自身も以前にレコーディングしていたので、隅から隅までよく知っていた。

 彼は最初、少しく張り合う気持ちで、その演奏に耳を傾けていた。全体的に――幾つか具体的な箇所でも――彼自身の解釈と相通じ、共感しつつも、しかし新しくはないと思い、むしろ自分の演奏が下敷きにされているのではと考えた。――が、時が経つにつれて、そうした対抗心は失われていった。音色、表現力、そしてその解釈の深みに於いてさえ、いずれも自分は彼に負けている、或いは、言葉を選ぶならば、彼に更新されてしまったと認めざるを得なかった――少なくとも、その二曲に関しては――。

 蒔野は、次第にうっとりした心地になっていった。

 楽曲の全体が、星空のように広大に、遥かに見渡されて、しかも旋律は、星座のように整然と結び合って、決して見失われることがなかった。その多彩な一音一音に耳を澄ますことには、星の光の一つ一つに目を凝らすような楽しみがあり、興奮があった。

 軽薄な外連味は些かもなく、むしろ、愚直なまでにオーソドックスで、その意味でも蒔野の好みであり、実際、彼自身のスタイルとも近かった。

 しかし、こちらの方が、出るべくして出てきた本物じゃないかという気がした。


第五章 再会/4=平野啓一郎 

#マチネの終わりに


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