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『マチネの終わりに』第四章(32)

「美も仕事を選んでるのよ、その分。もう良い仕事だけすれば十分な存在なんだから。」
「うまいこと言うね。……俺は、洋子さんのメールを読みながら、イラクで一体、俺の音楽に何の意味があるんだろうって、やっぱり考えた。……カラシニコフの銃弾が飛び交う世界で、俺のバッハに、どれほどのありがたみがあるのかって。」
 洋子は、その言葉をすぐにきっぱりと否定した。
「わたしは、実際にバグダッドで蒔野さんのバッハの美に救われた人間よ。」
「メールにもそう書いてくれてたけど、……本当に?」
「疑ってたの?」
「そうじゃないけど、……そんな状況を思い浮かべながらレコーディングしたわけでもないから。想像がつかない。」
「バグダッドは、……今は絶望的な状況だけど、わたしはそのただ中で、初めて本当にバッハを好きになれた気がしたの。やっぱり、三十年戦争のあとの音楽なんだなって、すごく感じた。」
 蒔野は、何の衒いもなく語られたふうのその一言に、胸をゆっくり強く押し込まれるようなショックを受けた。
「わたしはプロテスタントじゃないから、肝心なことはやっぱり理解できていないかもしれないけれど、ドイツ人の半分が死んだなんて言われてるあの凄惨な戦争のあとで、教会に足を運んだ人たちは、やっぱり、バッハの音楽に深く慰められたんだと思う。そういうことを信じさせてくれたのは、蒔野さんの演奏よ。ご当人は、無自覚らしいけど。」
 洋子は、急に黙ってしまった彼の目を覗き込むように言った。
「いや、……ありがとう。うれしいよ。――しかし、やっぱりヨーロッパの血のせいなのかな、洋子さんがそういうことを自然に感じられるのは? そっちに感動したよ。」
「ヨーロッパって言っても辺境よ。オスマン・トルコとハプスブルクとの狭間なんだから。」
「でも、その純血じゃない、混ざり合ってる感じこそが、ヨーロッパなのかなとも思う。バッハ一族だって、元々はハンガリーから来た人たちだし。」


第四章 再会/32=平野啓一郎  

#マチネの終わりに

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