『マチネの終わりに』第一章(3)
蒔野は、カーテンコールの度に、少しずつニュアンスの違う洗練されたお辞儀をした。満足感を表現し、感動していることを伝え、少しくたびれていることも隠さなかった。その照れ笑いには、先ほどまでの神妙な面持ちとは違う、彼が折々、テレビのトーク番組などで見せる爽快さがあった。
終演後、ロビーは騒然とし、その相乗効果で、何か大変な名演を聴いた気がしていた人々は、やっぱりそうだったのかと自信を持った。連れ合いのいない者は、早速その興奮をネットに書き込み始め、立ち止まったり、人にぶつかったりして方々で迷惑がられた。
後にCD化され、レコード・アカデミー賞を受賞することとなるこの日の録音は、クラシックの――それもギターの――アルバムとしては、かなりの売れゆきとなった。
専門誌や新聞だけでなく、テレビの情報番組でも一度取り上げられたので、音楽に興味のない者たちも、蒔野というのは、やっぱりそんなに凄いのかとぼんやりと再認識した。
この日のコンサートを聴いたことの価値は、後には更に高まった。
というのも、蒔野の音楽活動は、この後唐突に、長い沈黙に入ることになるからである。
*
振り返ってみれば、あれが予兆だったのではという出来事が、実は一つあった。
終演後は、いつも以上に面会者が舞台裏に殺到したが、蒔野は彼らを待たせたまま、四十分近くも楽屋に籠もって出て来なかった。
中で倒れているんじゃないかと、途中からさすがに関係者が心配し始めたが、マネージャーの三谷早苗は、頑なにドアを開けることを認めなかった。
一年ほど前から蒔野の担当をしている彼女は、つい最近、「あーあ、」と言いながら三十歳になったところだった。少し頬の赤い丸顔で、分け目をつけた栗色のボブに黒縁眼鏡をかけている。うっかりすると、子供扱いしてしまいそうな雰囲気だが、その実、勝ち気で通っていて、特に相手が年配の男性の時には、かわいがられるか、不興を買うか、その評判がはっきりと分かれた。
第一章・出会いの長い夜/3=平野啓一郎
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