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【5月26日刊行予定!】第三章「知っていた二人」【試し読み】

『マチネの終わりに』、『ある男』に引き続き、愛と分人主義の物語であり、その最先端となる平野啓一郎の最新長篇『本心』(文藝春秋社)を、5月26日(水)に刊行いたします。🎊

発売記念に、プロローグから第三章まで、noteでも試し読み公開!
それでは、平野啓一郎の3年ぶりの新作『本心』をお楽しみください。

目次

プロローグ 5月17日(月)公開
第一章 〈母〉を作った事情 5月19日(水)
第二章 再会 5月21日(金)
▶︎▶︎第三章 知っていた二人 5月24日(月)
第四章 英雄的な少年
第五章 心の持ちよう主義
第六章 〝死の一瞬前〟
第七章 嵐のあと
第八章 転落
第九章 縁起
第十章 〈あの時、もし跳べたなら〉
第十一章 死ぬべきか、死なないべきか
第十二章 言葉
第十三章 本心
第十四章 最愛の人の他者性

第三章 知っていた二人

 以前のことがあっただけに、母の死後、八ヶ月を経ての面会依頼に、富田は応じないのではと懸念していたが、意外にも、すぐに日時を指定された。
〝自由死〟には、登録医による長期的な診察と認可が必要だというのは、法制化にあたって、オランダの「死の医療化」を模した通りである。しかし、「永続的な耐え難い苦痛」や「その合理的な解決策が他にない」といった本来の否定的な要件のみならず、自己決定権に基づく「人生に対する十全の満足感」や「納得」といった肯定的な要件が独自に加えられた結果、「生命終結と自死介助」の医師への要請は、ほとんど無条件に近いものとなっている。それを日本では、〝自由死〟などと呼称しているのだった。
 母は、九年前に、以前の病院からこの富田医院に「かかりつけ医」を変更していた。僕はそのことを知っていたが、母の説明は、「駅に近くて、こっちの方が便利だから。」というものだった。
 僕は、そのことをあまり深く気に留めなかった。富田医院が、〝自由死〟の認可を行っている病院だと知ったのは、母からその意思を伝えられたあとだった。
〝自由死〟の認可には、関与したがらない医師の方が圧倒的に多い。取り分け、国の社会保障制度の破綻から、その志望者が急増しつつある現状では。母の以前の主治医もそうだった。
 母がもし、最初から〝自由死〟を念頭に、かかりつけ医を変更していたのだとするならば、母の意思は、僕に告白した時点よりも、遥か以前に固まっていたことになる。しかし、高々、還暦という年齢で、そんなことを考えていたとは、到底思えなかった。
 当時僕は、二十歳になったばかりだった。そして母は、大学に進学できず、不安定な職を転々としていた僕の将来を強く案じていた。直接は決して口にしなかったが、僕が愛の生活からは、凡そほど遠い人生を生きていることも、懸念の一つだったはずだ。
 どうしてその時に、僕を見捨てて、〝自由死〟など考えるだろうか? 事実、僕が今の仕事で何とか生活を安定させるまで、母の存在は精神的にも、経済的にも不可欠だった。
 母自身の様子は?──まったくそんな気配はなかった。健康で、いつも笑顔だった。尤も、この確信は、野崎の手により、自動修正を解除された写真のために動揺してはいたが。……
 いずれにせよ、僕はこう考えていたのだった。寧ろ、逆ではないのかと。母は実際、ただ「便利だから」という理由で、富田医院に「かかりつけ医」を変更したのだろう。しかし、通院するうちに、〝自由死〟を肯定するこの病院の方針に影響されて、自分でもそれを考えるようになったのではないか、と。

 昼休みの時間に病院を訪れると、受付で少し待たされた。傍らの本棚には、子供の絵本や雑誌などに混ざって、『美しい死に方──〝自由死〟という選択』というタイトルの本が差さっていた。背表紙は、ここで、この本を手に取った人々を想像させるほどに、酷く傷んでいる。母もこれを読んだのだろうか? 手を伸ばしかけたところで、看護師に呼ばれて、応接室に通された。
 富田は、黒い革張りのソファに座っていて、向かいを僕に勧めた。
 還暦をようやく過ぎたくらいの年齢で、威圧的なナイロールの眼鏡を掛けている。たった数年が風貌に出やすい年齢なのか、白い髭剃りあとのある首許の弛みが、どことなく頼りなげに見えた。
 看護師が冷たいお茶を持ってきてくれた。
「お母さんは残念でしたね。最後は事故だって?」
 僕は、ええ、と頷いた。患者ではないからか、顔見知りの年長者らしい口調だった。
「駅前のスーパーが配達に使ってるドローンを、カラスがいつも狙ってたんです。食べ物目当てか、ただ遊んでたのか。」
「多いんだ、それが今。東京で、ドローン事故対策の撲滅作戦やってから、カラスが大分、こっちに逃げてきてるからねえ。」
「それで、たまたま歩いていた母の近くに墜落してきたんです、大きなドローンが。ぶつかったわけではないみたいですが、驚いた拍子に側溝に落ちてしまって。……病院に運ばれるまでは息があったようですが、結局、そのまま亡くなりました。」
「お気の毒に。予算がなくて、修繕してないような道路もいっぱいあるからな、今は。あなたは、死に目には結局?」
「いえ、……僕は上海に出稼ぎに行ってましたので。」
「かわいそうに。──ああ、あなたもだけど、お母さんが。……」
 富田はわざわざ、そう言い足した。彼が、僕に対して抱く軽蔑は、母への遠慮がなくなった分、隠し方がぞんざいになっていた。
 僕は、なぜだろうかと、ふと考えた。〝自由死〟を願う者の意思を、家族が理解せぬことなど、ありきたりな話ではあるまいか?
 それでもこの制度が、多少の軋みを顕在化させつつ、比較的安定して運用されているのは、通常は、関与した医師が、近親者の抵抗に対して、より周到な配慮を行っているからに違いなかった。
「それで、──今日はどうされました?」
 茶を一口飲んで、彼は背もたれに身を預けながら訊いた。
「母の〝自由死〟を思い止まらせたことは、後悔していません。ただ、母がなぜそうした思いを抱くに至ったのかを知りたいんです。前に伺った時は、守秘義務として教えていただけませんでしたが。」
「あなたには、何と言ってたの?」
「……もう十分生きたから、と。」
「そう仰ってましたよ、ここでも。」
「それを、真に受けるんですか?」
 僕の反論の言葉に、富田は直接、自身の人格に触れられたかのような、過敏な反応を示した。
「あなたはさ、お母さんの生涯最後の決断を信じないの?」
「母と僕の生活、……ご存じでしょう? 『もう十分』って言葉、〝十全の満足感〟から出たと思いますか?」
「それは、疑いだせばキリがないけど、適切な手順で確認してることだから。──してますよ。当たり前でしょう? とにかくね、あなたのお母さんの〝自由死〟の意思は、とても強いものでしたよ。経過観察中も、一度も揺らいだことがなかったし、精神的にも、非常に安定していました。認可を与える上での問題は、家族の理解という項目だけでしたからね。」
「母は〝自由死〟なんて、それまで考えたこともなかったんです。この病院に来るようになってからですよ。先生は、母に何を話したんですか?」
「ああ、そう誤解するかなあ?」
 富田は、呆れたような顔で僕を見ていた。ガラスのテーブル越しに、僕は、靴下にサンダルを履いた彼の足の指が、ピクピク動いている気配を感じた。
「以前にも説明しましたよ、……あのね、〝自由死〟をこちらから提案するようなことは、絶対にないんですよ。うちの病院だけじゃなくて、それは、世間のどこの病院もそう。だって、意味がないでしょう?」
「母は、もう亡くなってるんです。〝自由死〟でもありませんでした。だから、全部、本当のことを教えてほしいんです。母は、ここで、自分から〝自由死〟を願い出たんですか?」
「そうですよ。基本的に、まずは十分に話を聴いて、考え直すことを促すんです。生き続ける可能性がある限りは、そちらを選択すべきだよな。けれど、本人の意思が固いとわかった時には、それを尊重すべきじゃない? あなたにだって、お母さんの個人の意思を否定する権利はないんだよ。お母さん自身の命なんだから。」
「どうしてそれが、母の本心だって、先生にわかるんですか? 母は本当は、もっと生きたかったんです。だけど、今の世の中じゃ、そんなこと、言い出せないじゃないですか。母の世代は、ずっと将来のお荷物扱いされてきて、実際そうなったって、社会から嫌悪されてる。〝自由死〟を美徳とする本だって溢れ返ってる。『もう十分』と、自分から進んで言わざるを得ない状況は、先生だってよく知ってるでしょう?」
「私は、そういう思想的な問題には踏み込みませんよ。医師ですから。」
「思想?」
「それは、公共的な死生観もあるでしょう? 国が今みたいに切羽詰まった時代には、長生きをそのままナイーヴに肯定することは、できないだろうなあ。次の世代のことを考えて、死に時を自分で選択するというのは、私は立派だと思いますよ。」
 僕は、時間そのものを体から抜き取られてしまったかのように固まって動けなくなったが、あとに残った心拍の激しさには、哄笑的なところがあった。
「まあ、それは一般論だな。あなたは──いい、はっきり言うよ?──自分が見捨てられたと思いたくないばかりに、お母さんの意思を否認してるんだ。もちろん、社会風潮の影響も受けてるでしょう。当たり前だな。良い影響も悪い影響も、受けずに生きられる人間なんかいない。その上でだ、よく考えて、お母さんはちゃんと自分で判断してるんです。本心から。──お母さんは、とても冷静でしたよ。」
 そう言うと、富田は、この場を穏やかに収めることを考えながら、もう少し先まで進むべきだという衝動を堪えきれない様子で言った。
「あなたたちの生活は苦しかったんだな。お母さんの寿命は、八十六歳と予測されてたけど、あんまりアレもあてにならんよ。まあ、それでも、あと十五年以上。──『もう十分』ということを理解するのが、そんなに難しい? 下り坂が長ければこそだ。いつまで働けるかわからないし、体も不自由になるばかりだぞ。あなたは若いけど、そのくらい、想像がつかないかな?」
「先生はだから、母が本心から、『もう十分』と思っていたと判断したんですか?」
「だからさ、何度も言うけど、お母さんが、本心からそう思ってたかどうかなんていうのは、それはわかりませんよ、私は。ただ、お母さんは、本心から決断したんですよ。それでね、──つまり、あなたに説明する言葉としては、それしかなかったんだな。その『もう十分』という言葉しか。そこをあなたが、わかろうとするかどうかじゃない、問題は?」
「持って回った言い方をせずに、もっとはっきり言ってください。これは、僕が生きていく上で重要な問題なんです。」
 富田の躊躇は、それでもやはり、僕への一種の配慮だったと思う。けれども、どんな人間にも、目の前の相手に対して、何となく残酷であることを夢見る一瞬があるように、彼は、終いには勢いづいて話し始めた。
「あなたは独身だな、まだ。」
「──はい。」
「お母さんは、このあと十五年以上、自分で長生きしてお金を使うことと、子供にそのお金を遺すことと、どっちが幸福かを考えて、〝自由死〟を決断したんだ。私にも、子供がいますけど、理解できますよ、その心境は。」
 僕は、富田が真顔でそう言うのを見ていた。頰の震えが止まらなくなって、少し俯いて、右手で強く拭った。
「母が、自分でそう言ったんですか?」
「直接は言いませんよ。けど、彼女が説明する状況を総合すれば、そうとしか考えられないでしょう? 残念だけど、全然、珍しい話じゃない。あんまりね、〝自由死〟っていうのは、遺族が言いたがらないから、表向きには病死ってされてることも少くないけど、子供の将来を思ってというのは、多いんですよ、現場にいると。」
 富田のその言葉は、僕の胸を鈍く突いた。実際僕は、母の〝自由死〟の願望を、これまで誰にも喋ったことがなかった。それはただ、何となくのことだったが、やはり隠していたのだと、この時、初めて自覚し、頬に重たい火照りを感じた。
「先生は、……そんな考えで母に〝自由死〟の認可を出したんですか?」
 富田は、無意識らしく、右の肘を背もたれの上にかけた。
「子供だから、一番、お母さんの気持ちを理解していると思いたくなるのもわかるけどね、家族だからこそ、言えないこともあるぞ。あなたも、だから、私に話を聴きに来てるんじゃないの? それで、私の話を聴いて、それは違うって否認するっていうのは、混乱してるなあ。まあ、わかるけど。」
「お金を遺してもらうことなんかより、母がいてくれた方が、僕にとっては遥かに大きな喜びだったんです。それは母も知ってるし、僕のためを思って、〝自由死〟を選んだなんて、……そんな単純な話のわけないでしょう?」
「複雑だったら、現実的な感じがするの?」
「母は、先生には、そうとでも言うしかなかったからじゃないですか? それは、僕が知りたい、母の本心じゃないです。もっと、……」
 僕は、そう言いかけたが、これ以上、問い詰めても無意味なことは明らかだった。
 母はここに、別段、人生相談に来ていたわけではなく、ただ、〝自由死〟の認可を求めに来ていたのだった。そして、富田が、今し方のような理屈で納得しているのなら、母は、それ以上のことは言わなかっただろう。その方が、目的に適うのだから。
 富田は、僕の言葉が途切れたことで、心理的な余裕を恢復した。時計に目を遣って、そろそろ、という表情をしてみせながら言った。
「私だって、然るべき時が来たら、〝自然死〟の前に〝自由死〟を選びますよ。そういう共感があるから、携われる仕事でもあるな。その時にはね、当然、子供に財産を遺すことを考えますよ。よく考えてごらん、一度、まっさらな気持ちで。そのお金でね、うちの娘が、少しでも楽に暮らしていけることを想像したら、それは親としては幸福なんだよ。自分の介護費に使われるより、よほどね。」
「先生は、裕福だから、心から『もう十分』と言えるんですよ。母は全然、違うじゃないですか。」
「医者も、もう裕福じゃないぞ。」と富田は、少し身を乗り出して、芝居じみた苦笑をした。
「親が子を思う気持ちは、一緒。──あなたも辛いだろうけどね、お母さんの気持ちになってよく考えてみたらどう? あなたという息子のことをとても愛している。そうだな。けれど、子供の将来を危ぶんでる。自分は、『もう十分生きた』と感じている。──ねえ? お母さんは、立派だな。私はね、あなたがその考えを、深く感謝しながら受け止めて、その代わりに、お母さんの最期を、しっかり手を握って、ベッドの側で看取ってあげた方が、どれほどお母さんにとっても幸せだったかと思うよ。──いや、待って。〝死の一瞬前〟っていうのは、人生で一度だけの、絶対に取り返しのつかない時間だ。その時に感じ、思うことが、この世界で人間として出来る最後のことだな。それをどうしたいかを決める権利は、絶対に個人にあります。私は、そう思う。もう一度、言っておきますが、お母さんに〝自由死〟を勧めたことは決してない。いいね? けれども、私がこんな、しなくてもいい〝自由死〟の認可なんて仕事を引き受けているのは、その私の思想のためだ。──本心を言えばね。それで理解できるかな?」
 僕は、反論しようとしていたはずだったが、急に擡げていた首から力が抜けてしまった。母が〝死の一瞬前〟に、僕と一緒の時の自分でいられなかったのは、事実だった。そしてそれを、母の内側から追体験する想像は、僕を打ちのめした。
「その考えが理解できないわけではないです。──わかりますけど、……それにしたって、母はまだ七十歳だったんですよ? 早すぎるじゃないですか。……」
 富田は、ゆっくり一度、頷いた。
「早いね。だけど、結局、寿命予測よりもずっと早く、事故死してしまったんだからね。お母さんの考えていたことの方が、正しかったんじゃない?」
「……。」
「あなた、藤原亮治って小説家の本、読みましたか?」
「いえ、……」
「どうして? お母さんが愛読してたでしょう? だから読まないの?」
「そういうわけでもないですけど、……たまたま。生きてる作家の本は、あまり読まないんです。」
「お母さんの死生観を知りたいんだったら、私の影響を勘ぐるより、藤原亮治の本を読んだ方がいいでしょう。彼の『波濤』という小説が好きでしたね、お母さんは。」
 僕は、その助言に虚を突かれた。母が藤原亮治の本を愛読していたことは知っていたが、彼の本を、母の死と結びつけて考えてみたことはなかった。
 僕は、最後に面会の礼を言い、席を立った。富田は、
「まあ、辛いでしょうが、がんばんなさい、あなたも。それがお母さんの思いに報いることだよ。」
 と立ち上がって、疲れたというより、腹が減ったという風な顔で僕の出て行くのを見送った。

 母が僕に、金を遺すために〝自由死〟を急いだという富田の考えは、いかにも、赤の他人が思いつきそうな真実らしさ故に、凡そ真実らしくなかった。
 僕は強く反発したが、では母が、自分の存在が、社会の迷惑になるという考えに追い詰められていたという、他でもない僕自身の憶測はどうなのかというと、それもまた、母の人生を記した本の中に、どこかからコピー&ペーストした文章が紛れ込んでいるような感じがしていた。
 僕に対しては、最後まで、「もう十分に生きた」という人生への満足を、納得させようとしていたが、それも、自分が敢えて息子のために〝犠牲〟となることを、悟らせないためだったというのか? 僕は、僕の迷惑になるという母の思いを知っていながら、それを認めたくないばかりに、社会の迷惑になるという罪悪感に、無意識にすり替えていたのだろうか? 〝自由死〟の一番の動機は、現実には、金が底をつきそうだ、という不安のはずなのに。……

 富田との面会のことを、僕は帰宅後、〈母〉に話さなかった。しかし〈母〉は、驚くべきことに、僕の様子から、何かあったらしいと察して、
「どうしたの、浮かない顔して? 悩んでることがあるなら、お母さんに言って。」と優しい目で僕を覗き込んだ。
 僕は、心配されたことが嬉しくて、「ありがとう。でも、大丈夫。」と礼を言った。
 自然と笑顔になったが、それは、〈母〉がいなければ、今日一日、僕の顔に生じることのなかった表情だった。高額だったが、これだけでも、いい買い物をしたと思うべきなのだと、僕は自分に言い聞かせた。
 僕の表情は、事前に動画や写真で〈母〉に学習されていて、あとで知ったのだが、野崎と交わしたやりとりでさえ、その材料に供されていた。
 その分析の結果も資料にまとめられていたが、僕の表情認識は、大して難しくないらしく、喜怒哀楽を基本として、数えられる程度のパターンしかないらしい。
 どんな理由で気落ちしていたとしても、それが表れるのは、何となく浮かない顔でしかなく、何があって喜んでいたとしても、笑顔は笑顔なのだった。
 この単純な発見の何が僕にとって新鮮だったのかはわからない。当然のことだが、ともかく僕は、記憶の中の母の表情が、一体どんな思いと結びついていたのか、その可能性の茫漠とした広がりに、心許なくなったのだった。

 三好彩花との面会は、彼女の仕事の関係で、深夜の二時の約束だった。
 帰宅後、僕は夕食を準備するのが面倒で、翌朝のために買っておいたレーズンパンを、麦茶を飲みながら囓って済ませた。一息吐くと、食卓やキッチンに散乱した菓子やインスタント食品の空き袋を眺めた。生活ゴミが打ち寄せられた、うら寂しい初秋の浜辺のようだった。母が本当に今、旅行から帰ってきたかのように蘇生して、この有様を見たなら、何と言うだろうか?
 それから入浴して一度仮眠し、三好との約束の三十分ほど前に目を覚ました。
 回していた洗濯機が、終了の通知音を繰り返していた。
 このところ、僕は炎天下を一日平均で一五キロ歩いている。肉体的な疲労だけでなく、不快な依頼者が続いていることも、応えていた。着替えを用意して、気を使ってはいたが、届け物の先で、「臭い」と苦情を言われ、僕は初めて最低の評価をつけられた。たった、それだけのことで。──五十歳くらいの女性だったが、露骨に顰めたその顔と、ドアの隙間から洩れてきたクーラーの冷気が、僕を傷つけた。
 評価が4・5点を下回ると、会社との特別歩合が見直され、3・0を切ると契約解除だった。僕はずっと4・9だったが、一気に4・6点まで下がってしまい、今の収入を維持できるかどうかの瀬戸際に立たされた。
 三好と会う前に〈母〉と少し話したが、「こんな遅い時間に。眠れないの?」と、心配された。昔の母と、本当に瓜二つの優しい目だった。
 あったことをそのまま話すと、〈母〉は、
「マァァ、……酷いねえ。こんなに暑い中、働いてくれてる人に向かって。どういうこと?」と腹を立て、僕を驚かせた。
 そして、僕が「もういいよ。ま、色んな人がいるし、運が悪かったんだよ。」と宥めるまで、僕のために怒りが収まらなかった。そう言えば、野崎に渡した動画資料の中に、旅行先で母を撮影していた時、人にぶつかられて、怒鳴りつけられた場面があった。母は、よろけた僕を心配しながら、通り過ぎていったその男に対して、そんな風に怒りを露わにしていた。
 そのことを思い出して、僕は、胸の内に重たく広がっていた不快が、少し和らぐのを感じた。

 三好とは、仮想空間内の彼女が指定した場所で待ち合わせをした。
 ヘッドセットをつけ、少し早めに訪ねてみると、夕暮れ時の、椰子の木が立ち並ぶ高級ホテルのプールサイドだった。
 空は西から赤みが差しているが、頭上にはまだ暗みきれない青空の名残があった。人のいないプールは、底からライトで照らし出されていて、その色は、沈みゆく太陽が、うっかり回収し忘れた午後の光のようだった。
 僕は、細かな気泡が、砂金のように煌めいている水中に目を凝らして、よく出来ているなと感心した。
 熱帯の、僕の知らない鳥の鳴き声が流れ星のように空を掠める外は、遠くに微かに波の音が聞こえるだけだった。
 僕は、パラソルの下のテーブル席に座っていた。三好の姿は、まだなかった。
 自宅の部屋は、クーラーをつけていたが、カクテルでも飲みたい気分になった。
 石畳は、つい先ほどまで誰かが泳いでいて、そろそろ、と歩いて立ち去ったあとのように濡れている。その先は、芝生になっていた。僕は、ぼんやりとそれを見ながら、自分の裸足が、熱せられた石の上を火傷しそうになって歩き、チクチクとした芝生に避難する最初の一歩の感触を想像した。
 こんな場所に、一生に一度でも旅行に来られたら、どんなにいいだろうか。仮想空間は、なるほど、現実の幸福の欠落を補ってくれるが、却ってその渇望を搔き立てるところもある。僕があまり、好きになれない理由の一つだった。
 それでも、母をせめて、ここに案内してやったなら、どんなに喜んだだろうか。
「まあ、きれいな場所ねえ! 仮想空間も、馬鹿にできないわね。」と笑って振り返る姿が目に浮かんだ。
 そうした楽しみを、若い僕こそが、もっと教えてやるべきだった。……

 しばらくすると、足許に一匹の猫が近づいてきた。日本でもよく見る白黒の雑種だったが、短い毛が艶やかで、また、尻尾はその自由の象徴のように伸びやかだった。
 僕を見上げるので、頭を撫でてやろうとした。すると、
「こんばんは。石川さんですか?」と、その猫が喋った。
 僕は、驚いて返事をした後に、ようやく理解して、
「三好さんですか?」と尋ねた。
「そうです。初めまして。──猫なんです、今日は。」
 そう言って、彼女は傍らの椅子に跳び乗り、こちらを向いて座った。僕は、無料で使用できる平凡な男性のアバターをまとっていたので、何ともチグハグだった。母の〝自由死〟の意思について聞きたかったのだが、そういう深刻な話をする気を、最初からくじかれてしまった。
 しかし、それを不快とも感じなかったのは、この場所が心地良く、彼女の分身の猫の姿が、自然と僕を微笑ませるほど、愛らしかったからだった。
「良い場所ですね、ここは。」
「スリランカのコロンボにある高級ホテルなんです。宣伝のために、ホテルがお金をかけて作ってるから、リアルなんですよね。」
「へえ、……よく来るんですか?」
「うん、時々。でも、色んなとこ、ウロウロしてますよ。ここも、本当はすごい人で混み合ってるんです。今も、見えるようにしたら、二百人くらいいますよ。」
「ああ、そうなんですか。……静かだと思ってたんですが。」
 オリーブ色の眼の真ん中に丸く開いた黒い瞳で、猫はこちらを見ていた。椅子から垂れた尻尾が、忙しなく左右に揺れている。
 僕は、うまく話を続けられなくて、
「その赤い首輪、……かわいいですね。」と、目についたそれを褒めた。
 首輪が顔の輪郭を強調して、擬人化に寄与していた。言ったあとで、妙な感じがしたが、彼女もおかしかったのか、声を出して笑った。
「ありがとう。」
 猫は左手の毛繕いを一頻りしてから、
「お母さんのことでしょう?」と尋ねた。
「はい。ご連絡した通りなんですが、……実は生前、母は、〝自由死〟したがってたんです。」
「うん、……そうね。」
「……三好さんにも打ち明けてたんですか?」
「打ち明けてたっていうか、……言ってた。わたしは、止めてたんだけど。」
 僕は、その一言に心を動かされた。
 この世界には、母の〝自由死〟の願いを、知っていた人と、知らなかった人がいる。そして、知っていた人の中でも、止めた人と止めなかった人がいるのだった。
 三好は、僕が初めて会った、その〝止めた人〟だった。僕は、自分の顔に、温かい香油を注がれたように喜びが広がるのを感じたが、無料のお粗末なアバターには残念ながらそれが反映されなかった。
 そんな恰好で、猫に向かって話す内容としては、いかにも不適当だったが、却って心理的な負担が軽減されるところもあった。そして、奇妙な効果だが、動物であるからには、きっと相手は、真実しか語らないはずだという思い込みが芽生えた。富田以外に、僕が母の〝自由死〟について話したのは、これが初めてだった。
「母は、何と言ってました? 僕には、未だにその動機がわからないんです。」
 ゆっくりとした瞬きで、プールの方を気にするように振り返った後、猫はまた、丸い目で僕を見つめた。
「全部言った方がいいんですか?」
「はい、全部。」
「旅館で、お母さんは、わたしと一緒に、布団の上げ下げをするような下働きをしてたんです。アルバイトの子たちを取りまとめながら。けど、会社が経営難で、人を減らすことになったのよね。……それで、重労働だから、会社はわたしを残そうとしたの。お母さんも、七十歳になるくらいの頃だったから。」
「でも、まだ七十歳でしょう? 今は誰だって働いてるし、重労働っていっても、パワードスーツを着けるとか、そういうのは?」
「着けるけど、……あんまり効果的じゃないのよね、ああいうのは。旅館の配膳とか、掃除とか、布団の上げ下げとかだと。それに、筋力だけ増強されても、体力は変わらないでしょう?」
「それは、まぁ、……」
「でも、とにかく、わたしは、会社に無理だって言ったのよ。実際、今でも死ぬほど大変だし。それに、お母さんは、わたしが働き始めた時から、すごく良くしてくれたから、申し訳なかったし。──けど、会社の方針は変わらなくて、最後は、給料下がってもいいならって話になったみたい。詳しくは訊かなかったけど。それで、お母さんは、受け容れたんだと思う。けど、それも、一時的なことでしょう? 結局はまた、辞めるかどうかって話になるに決まってるから。……その頃から、お母さん、やっぱり、将来を心配してた。」
「生活費のことですか?」
「生活費、……そうだけど、朔也君のことでしょう、一番心配してたのは。」
 僕は、母が彼女に託していた言葉の重さから、その中身を想像した。
「朔也君」と彼女は呼んだが、恐らく母といつも、そんな風に語り合っていたのだろう。彼女の中には、母のなにがしかが分かち持たれていたが、だからこそ、母の言葉を間違って「学習」してしまっているような感じもした。
「僕の何を心配してたんですか?」
「何をって、……全部を。」
「……。」
「お母さん、自分が働けなくなったあと、預金でどれくらい二人で生活していけるか、計算してたから。どんなことしてでも、働くつもりだったみたいだけど、もし仕事が見つからなかったらって心配してたし。……それに、働けない体になって、介護が必要になった時のことも。施設には、とても入れないけど、朔也君、仕事があるから、自宅介護も出来ないでしょう?」
「出来ます。」
「……出来るの? どうやって?」
 猫の瞳は、丸く大きくなった。本当に可能かどうかを確かめている風ではなかった。恐らく、出来るはずのないことを出来ると言ってしまう僕を、母から聞いていた人物像と照合しているのだった。母の心配を、今更のように納得しながら──。
「いずれにせよ、介護なんて、まだ先の話じゃないですか。」
 猫は、声もなく鳴く仕草を見せると、首を振った。
「介護が必要になってから、〝自由死〟をしたいって言っても、朔也君が絶対に認めないから、その前に実行したいって。」
「……本当にそんなこと、言ったんですか?」
「うん。言ってたよ。一度じゃなくて、何度か。」
「そんな考えって、おかしいでしょう? まだ十分若くて元気なんだから、僕は余計に反対するでしょう?」
「朔也君のためだって言えば、そうだろうけど、──お母さん自身の意思なら?」
「〝自由死〟が、ですか?」
「そう。」
 アルミ製の椅子から垂れた猫の尻尾は、相変わらず、左右に揺れていた。
「わたし、……やっぱりお母さんは、本当に〝自由死〟したかったんだと思う。自分の考えで。」
「どうして、そう思えるんですか?」
「聞いててそう感じたから。」
「──それだけのことですか?」
「こんな風に、猫とお人形の恰好で喋っててもわからないけど、向かい合って話してたら、わかるでしょう? 表情とか仕草から。」
 僕は、そんな素朴な話を、彼女が本気で信じているのだろうかと疑った。しかし、次の瞬間には、更に素朴な僕自身の撞着に思い至らずにはいなかった。
 なるほど、対面であれば得られるはずの「表情とか仕草」といった情報を、今、僕たちは欠いていた。そして、それがあったから、母の言葉の真偽を判断できたという彼女に、僕は呆れていた。ところが、彼女がそれを、ただ、会話の流れに任せて言っているに過ぎないのか、それとも、確信を持って言っているのか、僕はまさしく、彼女の表情が見えないからこそ、わからないと感じているのだった。……
「朔也君のためっていうのもあると思う、それは絶対に。親心でしょう? けど、それだけじゃないと思う。」
「そういうのを『親心』って言う風潮が、母を〝自由死〟に追い詰めていったんじゃないんですか?」
「違うでしょう、それは。お母さん、朔也君を本当に愛してたから。……幾ら世間がそう言っても、子供のことなんか、何とも思わない親だって、たくさんいるのよ。自分のことより子供のことをまず考えたいって、……そんな優しい心の親に愛されて育ってるから、あなたにはわからないのよ。そんなふうに思ってくれる親がいるなんて、贅沢よ。羨ましい。」
 猫は、ゆっくりと目を瞑って開くと、先ほどと同じように、夕暮れの下で黄金色の光を揺らめかせているプールに目をやった。僕には感じられない風が、ゆったりと椰子の木の枝の隙間を潜っているらしかった。
 三好の言葉に、僕はすぐには反論しなかった。その響きには、これまでと違った非難の調子が含まれていて、僕はそれに気圧された。同時に、直には触れることが憚られる過敏な記憶が、剝き出しになっているような痛々しさを感じた。
「もちろん、そういう家庭もあるでしょうけど、……」
「あるの。──だから、お母さんが朔也君を愛していて、その思いから将来を心配してたことだけは信じてあげないと。かわいそうでしょう? お母さん、わたしのこと、〝友達〟だって言ってくれてたから、その〝友達〟の立場で言うの。だけど──聴いて──、わたしが言いたいのはそのことじゃないの。それでも、〝自由死〟したかったって言うのは、お母さん自身の意思なのよ。長い人生を通じて考えてきたことよ。朔也君、本当にわからない? 『もう十分』っていう感じ。」
「その言葉、……『もう十分』って、三好さんにも言ってたんですか?」
「言ってたよ。本当に朗らかな顔で、『もう十分』って。」
 僕は、また反論しかけたが、猫のアバターの向こうには、〝友達〟に付き添われている母がいるような感じがして、言葉に詰まった。
 それに、彼女にはまだ、訊きたいことがたくさんあったので、気分を害してしまうことを怖れた。
「……母の意思というのは、じゃあ、何だったんですか? それも、話してたんですか?」
 三好は返事を躊躇った。そして、
「その話は長くなるから、また今度にしない? わたしも、そろそろ寝ないといけないし。もう三時になってる。」と言った。
 彼女がモニターに向かってそうしているのかどうかはわからなかったが、猫は大きな欠伸をした。
 時計を見ると、確かに、寝るべきなのは、僕も同じだった。
「わかりました。じゃあ、改めて。──ありがとうございました。遅い時間に。」
「ううん、こちらこそ、ごめんなさい、こんな時間に。今度は、どこかで会って話します?」
「はい、……出来たら。猫と喋ってると、なんとなく、妙な感じで。」
「そうよね。初対面の人とはどうしても。……じゃあ、また連絡します。時間、調整しましょう。」
「ありがとうございます。じゃあ、……」
「あ、……朔也君、お父さんのことって、お母さんから何か聞いてる?」
「父のこと、ですか?」
「そう。」
「まあ、……多少は。」
「そっか。……」
「母は、何か言ってました?」
「うん、……それも、また今度ゆっくり。おやすみなさい。」
「はい、おやすみなさい。……」
 猫は、前足を伸ばして音もなく椅子から跳び降りた。そして、スッと顔を上げ、周囲を見渡し、プールサイドを駆けていったかと思うと、いつの間にか姿を消していた。
 僕は、そのあとしばらく、そこに残って、やはり依然として、さっきまで誰かが泳いでいたかのように、ゆったりと揺れ続けているプールの水を眺めた。
 時間が止められているらしく、落ちかけた太陽は、水平線の縁に留まったままだった。
〝永遠〟が、仮想空間で、こんなに簡単に実現してしまうことが不思議だった。
 彼女は、仕事のない日に、いつもここで、独り何を想っているのだろうか?
 ずっとここにいて、時間を忘れられたら、老いの不安からも、死の恐怖からも解放されるのだろうか? それは、安らぎだろうか? それとも、生は何か、酷く鈍化したものになるのだろうか?
 最後の言葉は、いかにも思わせぶりで、僕は鼻白みつつ動揺した。母が僕に、父について語ることはほとんどなかった。その一事からも、三好と母との関係の深さは窺われたが。
 ──父の存在と、母の〝自由死〟の決断とが、何か関係しているのだろうか?

 ヘッドセットを外すと、生活ゴミで荒廃したリヴィングに独りでいる、という現実に引き戻された。部屋が、酷く狭く感じられた。天井の明かりは、僕の孤独を誤解の余地なく、隅々まで照らし出している。
 疲れた目の具合を確かめるようにして、僕は、窓辺のフィカスの鉢を見つめた。
 僕が死ねば、この木もまた、少し遅れて死ぬことになるだろう。何が起きたのかも気づかぬまま。
〈母〉はどうなるのだろうか? ただ放置されるだけなのか、それとも、また追加料金を払って、オプションで自動消去の申し込みでもするのか。
 僕は、初めて、母より先に死ななくて良かったと思った。僕ではなく、母がこの部屋に、今一人で遺されていたら、どんなに寂しかっただろうか、と考えながら。

 三好とネットを介して会話をするようになってから、〈母〉は目に見えて快活になっていった。
 最初の再会の時、彼女は、僕と同様に涙を流したと言った。それを聞いて、僕は彼女に一層、心を開いた。一度だけの依頼のつもりだったが、彼女自身が、時々、〈母〉と話がしたいというので、そうしてもらうことにした。
 ネットで何度かやり取りをして、僕は彼女が二歳年上であることを知った。
 普段から仮想空間に入り浸っている彼女は、僕よりも適応が早く、アクセス記録を見ると、その後、三日に一度は〈母〉と会話をしていて、長い時には、二時間にも及んでいた。当然、僕は彼女の孤独も察した。
 母は生前、仕事のことをほとんど話さなかったが、
「そう言えば、昔、三好さんと、修学旅行の男の子が連れてきたハムスターを、一緒に探したことがあってねえ。こっそり連れてきてて、夜中に泣きながらウロウロしてるから、かわいそうになって。」と、初めて聞くようなことまで語った。
 他人の中に眠っていながら、母の肉声を通じては、遂に聴くことのなかった出来事が、他にも幾らでもあるはずだった。その一つに触れて、僕はひどくうれしかった。
「そんなこと、あったの?」
 笑顔で応じると、〈母〉の表情も一段と明るくなった。
 僕は、〈母〉と話をする時の声が大きくなっていた。〈母〉の困惑した表情を見たくないので、〝自由死〟の話題には、努めて触れないようにしていた。〈母〉の方から、話を切り出すこともなかった。
 親しい人とのやりとりの結果、僕との会話も「深みが増す」という野崎の助言は、確かにその通りだった。考えてみれば、僕が生前、母と語り合ったことも、メディアで目にした情報というより、誰かとの間で生じた日々の出来事が大半だった。
 三好だけでなく、更に色んな人との学習機会を持たせれば、〈母〉の言葉も、もっと彩り豊かになるだろう。僕には語らずじまいだった思い出も、息を吹き返すに違いない。
 僕が学習させたのではないことを語り出すことで、〈母〉はますます、母に近づいてゆく感じがした。
 このVFに致命的な不具合が生じれば、僕は二度目の母の喪失を経験するだろう。──そんな風にさえ感じた。
 三好との会話による学習が進むと、もう以前のように、復元ポイントを作成して、何かあれば、そこまで〈母〉の性格を引き戻す、ということは考えなくなった。何か誤った事実を学習してしまったなら、飽くまで僕との会話を通じて、そうではないことを理解してもらうべきだった。
 しかし今朝、〈母〉が僕に語ったことは、生前の母がずっと隠し持っていたものを、間違って取り出してしまったかのような動揺を僕に齎した。
〈母〉が唐突に口にしたのは、僕の高校時代の話だった。
「三好さんは、朔也がお友達のために高校を卒業できなかったことに、すごく共感してたわよ。」
「──そんなことまで、喋ってたの?」
「そうよ。お母さん、ずっと胸に秘めてたけど、三好さんが聴いてくれて、どんなに心が楽になったか。」
「……ずっと?」
「だって、朔也が今みたいな生活をしてるのは、大学に行けなかったからでしょう?」
 僕は咄嗟に、「お母さん、そんなこと、言わなかったよ。」と注意しかけたが、寧ろ〈母〉に自由に語らせて、三好との間でどんな会話がなされたのかを知ろうとした。
「大学は、……そのあと自分で資格を取れば行けたけど、そうしなかったんだよ。それは、僕自身が決めたことだから。」
「そうだったわね。」
〈母〉は、そう言って頷くと、
「三好さんは、思いやりのある、本当に良い人よ。」と言った。
 亡くなるまで、母は本当に、僕の高校中退のことを気にしていたのだろうか?
 僕には、決してそう言わなかったが、三好が知っていて、改めて母とそのことを語り合っているならば、いずれにせよ、彼女にはそうした思いを打ち明けていたのだった。

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