『マチネの終わりに』第五章(28)
元々は、古い建物の隣り合う二戸の壁をぶち抜いて、一戸の二間としている特殊な構造で、リヴィングとベッドルームとの間はドアのない短い廊下で結ばれている。
蒔野と洋子とは、姿の見えないお互いの気配を、その廊下を通じて感じ取っていた。
やがて、ベッドルームの明かりを消して洋子が戻ると、蒔野は、書棚の前に立って、中を覗いてみていたらしい井上光晴の『明日 一九四五年八月八日・長崎』を元に戻しているところだった。彼は、その本については何も言わず、チンザノを飲んでいたグラスを棚の端に置いた。
洋子も今は敢えて、それに触れようとはしなかった。
こちらも照明が落ちていて、ソファの小脇のスタンド・ランプだけが点いている。
「ごめんなさい、遅くなって。」
「全然。大丈夫、彼女?」
「眠ってる。興奮してたけど、さすがに疲れてるから。――コーヒーでも淹(い)れ直す?」
「ううん。ありがとう。」
洋子は、空のグラスに腕を伸ばして、キッチンに下げるつもりだった。しかし、彼の目の前で不意に兆した沈黙が、彼女をその場に押し止めた。急に心拍が速くなった。彼を見上げると、ベッドルームで反芻していたことを、勇を鼓して口にした。
「蒔野さんがマドリードにいた間に、彼と話をしたの。」
「……。」
「他に好きな人が出来たから、婚約を解消させてほしいって、そう伝えた。その人と一緒に生きていきたいからって。――その報告をしたかったの、今日は。」
蒔野は、息を呑んで、微動だにしなかった。彼がつい今し方まで、独り覚悟を決めていたのは、その真逆の宣告に対してだった。
幾つもの感情が、一時に殺到して彼の胸に溢れた。
洋子は、常と変わらず毅然としていたが、その微かに笑みを含んだ眸には、不安の翳りが見えていた。
蒔野は、自分が彼女に強いた愛の代償を、この時、初めて痛感した。それは、フィアンセとの関係を絶たせたというだけでなく、彼女のその美しい性質に、人が噂話の中で気安く失笑しながら触るような一つの疵を負わせたことだった。
第五章 再会/28=平野啓一郎
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