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『マチネの終わりに』第四章(37)

 洋子は、蒔野のその言葉とその姿に、激しく心を揺さぶられ、頬を紅潮させた。しかし、溢れ出す彼への思いを押し殺すように、大きく息を吐くと、少し笑って言った。

「わたし、結婚するのよ、もうじき。」

「だから、止めに来たんだよ。」

 蒔野は、まっすぐに彼女を見つめた。洋子は、まさにその言葉を期待し続けていたはずだった。

 もうずっと以前から、恐らくはまだ、バグダッドにいた頃から。しかしそれを、今、聞かなければならない不幸のために、彼女は葛藤し、煩悶していた。よりにもよって、この三週間のからだの“不調”のために、リチャードとの子供を妊娠しているのではないかと疑っていた、まさにその時に。――

 もし本当に妊娠しているのなら、彼女は蒔野への愛を断念し、リチャードと結婚するつもりだった。彼女はそれを、運命として受け容れるつもりだった。しかし、思い過ごしであったなら、今はもう、自分の感情に忠実でありたかった。

 簡易的な検査結果は、彼女の憶測を否定していたが、確証を得るための病院での二度の検査予約は、いずれも新政府の組閣に関する突発的な取材のためにキャンセルせざるを得なかった。

 万が一にも、胎内に子供がいるのであれば、その父親とは別の人間に、「愛している」と口にすることは出来なかった。すべきではなかったし、したくなかった。幼時から、いつも不在の、遠い場所にいる父親を思い続けてきた彼女にとって、それは自分自身への裏切りでさえあった。

 蒔野は、黙ったままの洋子に対して、静かに言った。

「難しいことはわかってる。でも、出会ってしまったから。――その事実は、なかったことには出来ない。小峰洋子という一人の人間が、存在しなかった人生というのは、もう非現実なんだよ。俺が生きているこの現実には、洋子さんが存在している。そして、すぐ側で、存在し続けてほしいと思ってる。毎日こうして向かい合って、食事をしながら話をして、……」

「わたしと結婚して、子供を育ててって生活を、蒔野さん、現実的に考えられる? それがこの関係のための正しい答えなのかしら?」

 打算的だとは自覚しながらも、洋子はそれを確かめてみずにはいられなかった。


第四章 再会/37=平野啓一郎 

#マチネの終わりに



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