『マチネの終わりに』第五章(22)
顔を上げると、果たしてジャリーラは、満面に笑みを湛えていた。感激したように拍手をして、動悸を押さえるように胸に手を当てた。洋子も、うれしそうに彼女を見守っていた。
「すごくきれいな曲ですね。何ていう曲なんですか?」
蒔野は、洋子に紙とペンを借りてタイトルを書き、ジュリアン・ブリームのレコードを勧めておいた。
「蒔野さんは、レコーディングしてるの、この曲?」
と、洋子が尋ねた。
「してるよ、大分前だけど。」
「わたし、そのCD、持ってないわね。――ジャリーラ、今度、一緒に買いに行かない? フナックっていう大きなCDのお店があるから。見て回ったら、きっと楽しいわよ。」
それから、蒔野はふと、今年の初めにレコーディングしかけたまま、ほったらかしていた例の《この素晴らしき世界~Beautiful American Songs》を思い出して、ルイ・アームストロングの〈この素晴らしき世界〉とロバータ・フラックの〈やさしく歌って〉をワンコーラスだけ続け様に演奏した。
ジャリーラも洋子も、「ああ、この曲!」と、また一段と表情を明るくした。蒔野は、その楽しそうな様子を見て、すっかり嫌気が差して止めてしまったレコーディングだったが、やっぱり完成させるべきだろうかと、少し思い直した。
快活になってゆくジャリーラの様子に、蒔野は、自分が携わってきた音楽というものの力を再認識させられた。
こういう境遇でも、人は、音楽を楽しむことが出来るのだった。それは、人間に備わった、何と美しい能力だろうか。そして、ギターという楽器の良さは、まさしく、この親密さだった。こんなに近くで、こんなにやさしく歌うことが出来る。楽器自体が、自分の体温であたたまってゆく。しかしそこには、聴いている人間の温もりまで混ざり込んでいるような気がした。
それから、もっと彼女に楽しんでもらいたくて、蒔野は、ブリトニー・スピアーズの《トキシック》のイントロを適当にアレンジして弾いた。彼自身は知らない曲だったが、洋子のメールを読んで、ネットで動画をチェックし、遊び半分に曲をなぞっていた。
第五章 再会/22=平野啓一郎
<曲>
・Julian Bream『gavotte choro』
・louis armstrong『what a wonderful world』
https://www.youtube.com/watch?v=m5TwT69i1lU
・Roberta Flack『Killing Me Softly』
・Britney Spears 『Toxic』
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