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『マチネの終わりに』第二章(9)

 彼は、両手を組んで、揉みしだくようにその感触を確かめた。血の気が失われて白くなったり、逆に圧迫されて赤くなったりした。指の肉を介して、骨同士を軋ませるように強く絡ませた。痛みの内に、彼は肉体の本音を聞き取ろうとし、一体感を確かめようとした。そして、虚しくなって、もう一度、強く両手を握り合わせると、解放してやるように、力なく膝の上に落とした。
 
『――生きることと引き替えに、現代人は、際限もないうるささに耐えてる。音ばかりじゃない。映像も、匂いも、味も、ひょっとすると、ぬくもりのようなものでさえも。……何もかもが、我先にと五感に殺到してきては、その存在をめいっぱいがなり立てて主張している。資本主義の大声競争。……社会はそれでも飽き足らずに、個人の時間感覚を破裂させてでも、更にもっとと詰め込んでくる。堪ったもんじゃない。……人間の疲労。これは、歴史的な、決定的な変化なんじゃないか? 人類は今後、未来永劫、疲弊した存在であり続ける。疲労が、人間を他の動物から区別する特徴になる? 誰もが、機械だの、コンピューターのテンポに巻き込まれて、五感を喧噪に直接揉みしだかれながら、毎日をフーフー言って生きている。痛ましいほど必死に。そうしてほとんど、死によってしかもたらされない完全な静寂。……』
 蒔野はそれを、もう何年にも亘って、舞台上で感じてきていた。
 クラシック・ギターに最適な会場は、本来は、演奏者の意識が、客席の隅々にまで届く程度の規模である。それがこの楽器を、聴く者にとって特別、親密な存在にしている。彼自身が性に合っていると感じるのも、その理由のためだった。
 聴衆の大半はクラシック・ファンであり、年季の入ったギター愛好家であり、その他、彼をテレビのトーク番組やポップスのカヴァー曲で知ったという者も少なくなかった。どこの会場にも現れる熱心な追っかけがいる一方で、“天才”という評判に誘われて来たと、骨の折れそうな自意識を覗かせつつ、わざわざそう一言告げて帰る者もあった。


第二章・静寂と喧噪/9=平野啓一郎 


#マチネの終わりに

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