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『マチネの終わりに』第四章(8)

 ギタリストとして世に出て、この世界で生きていくようになってから、蒔野は祖父江が、いつもどんなに、自分の話ばかりを人にしていたかを知って驚いた。それは、日本国内だけでなく、海外でもそうだった。
「あの頃、祖父江先生、蒔野さんを教えてると嫌になってくるって、愚痴ってましたよ。どうしてあんな子供に、こっちが何十年もやってきて、やっと気づいたようなことがわかるのかなって。」
 そういう類の話を聞かされる度に、蒔野は笑って手を振った。謙遜だけでなく、内心、そんなことはなかったはずだとも思っていた。そして、当時を振り返って、本当のところ、先生は何を思って指導していたのだろうかとその胸中を想像した。
 祖父江も丁度、今の自分と同じ四十くらいだった。学外に弟子を取り始めたのもその頃からで、昔は当たり前のように思っていたが、自分がその年齢になってみると、少しふしぎな感じもした。あんなに音楽活動が充実していた時期に、なぜ後進の指導などに興味を持てたのか。――彼は、祖父江の目を通して、少年時代の自分の姿を思い描き、その音楽を聴こうとした。今、自分の目の前に、「天才少年」が一人現れたら、どうだろう? その少年は、殊勝に指導を仰ぎながら、時々、抑えきれずに自分の方が先生より上手なんじゃないかという表情を浮かべる。――許し難い自惚れ。……その実、さほどの才能でもなく、或いは徒労に終わるのかもしれないと感じながら、それでも彼に時間を割き続けるというのは、どういう心境なのだろうか? 経済的な事情はあったのかもしれない。それだけでなく、先生もあの頃、音楽家として苦しんでいたのだろうか。
 蒔野は、久しぶりに恩師と再会して、フェルナンド・ソルの幻想曲作品54で共演したが、祖父江は、演奏については良いとも悪いとも言わなかった。そして、演奏会後の楽屋で、それとなく《この素晴らしき世界》のレコーディング中止の話を切り出された。
「あのレコーディングですか? いやぁ、あれは、どぉーしても続けられなくなってしまって。」


第四章 再会/8=平野啓一郎 

#マチネの終わりに


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