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『マチネの終わりに』第五章(5)

【あらすじ】蒔野はパリで洋子と再会し、洋子の結婚を「止めに来た」と愛を告白する。洋子も彼を愛しているが、婚約者との間の子を妊娠しているかもしれず、返答を避けた。マドリードでのフェスティヴァルに臨んだ蒔野だが、若い才能の登場に複雑な感情を抱く。

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 蒔野は、このフェスティヴァルの間中、ずっと不満だった。「違うんじゃないか」という疑問が、絶えず脳裏を過ぎっていたが、本来ならば彼自身が取り組み、新しい達成として未来に解答を示すはずのその課題は、既にこの青年によって克服されつつあった。

 舞台上には、ギターという楽器の進化の系統樹の一番太い幹の先端があり、しかもそれが、弦と共に振動しながら、今にも目に見えて伸びてゆこうとしていた。なかなかのハンサムで、背が高く、スター性もあった。

 かくも素晴らしい才能のために集まった人数としては、いかにも寂しかったが、客席の他のギタリストも含めて、聴衆の表情は賛嘆に満ち、拍手は熱気を孕んでいた。

 終演後、蒔野は舞台裏に飛んでいって、彼に面会を請い、その演奏を祝福した。

 まだ三十前だという青年は、慇懃に挨拶をして、

「一昨日のテデスコの協奏曲、今日の準備そっちのけで聴きに行きました。」

 と快活に言った。

 その事実だけを伝えて、感想は一切口にしなかった。

 蒔野は、そこに兆した慎ましやかな沈黙から、彼が自分の演奏を何とも思わなかったらしいことを察した。そもそもギタリストとしても関心がなく、これまで特に、影響を受けたということもなかったのだろう。自分のタンスマンのレコードも恐らくは聴いてはいまい。近いアプローチだと言えば、酷い勘違いだとでも思うのではないか。

 新しい才能の出現が、必ずしも常に脅威であるわけではなかった。残酷なのは、その才能に自らの存在を素通りされ、無視されることだった。彼が一体、誰を尊敬し、誰に連なるべき才能であると自認しているのか。その系譜が、自分とは無関係に描き出される様子を、端でただ、黙って眺めているのは辛いことだった。あれはもう、自分が何年も前にやったことだと幾ら思ってみても、世間が新しい才能に於いて新しいと感じればそうなのだった。


第五章 再会/5=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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