『マチネの終わりに』第六章(50)
「……はい、いいですよ。」
三谷は、拒むことも出来ず、不安に駆られながら洋子を宛先にしてメールの準備をした。
「今日、会う約束をしてたんだけど、……助かったよ、連絡が取れて。」
そう言いながら、蒔野は祖父江が倒れた事情を説明し、この場を離れられないので、今日はホテルに泊まってもらうか、ここまで来てもらえるなら部屋の鍵を渡すと書いた。三谷にまた使いに行ってもらうというのは、すまなくて頼めなかった。
体が空き次第、連絡をするし、もし遅い時間まで起きているなら、帰りに直行するとも伝えた。何度も謝罪し、最後に忘れずに署名をすると、送信ボタンを勝手に押すのは、なんとなく躊躇われて、
「いい、これ、送ってもらっても?」
と三谷に渡した。
三谷は、見るつもりもなく目にしたその文面に、胸が張り裂けそうになった。
彼女は、蒔野から見えないようにして、メールを送信するふりをしながら、それをそのまま削除した。そして、顔を上げると、強ばった笑みで頷いた。
蒔野はほっとしたように、
「ありがとう。返信があるかもしれないから、申し訳ないけど、教えてくれる?」
と言って、息を吐いた。そして、また表情を曇らせると、ベンチに座ったままの奏を振り返った。
*
西新宿のホテルに空室を見つけて、フロントでチェックインの手続きをしながら、洋子は、自分がどこか、まったく別の場所にいるような感じがしていた。
聴力検査で耳にする高い信号音に似た音が、微かに鋭く鳴り続けている。そのために、周囲の物音だけでなく、見るもの、触れるもののすべてが、彼女からすんでのところで妨げられていた。
早く部屋に辿り着かなければならないと、彼女はそのことばかりを考えていた。現実に対するそうした無感覚には、この数カ月来、幾度となく経験している不穏な予兆があった。
第六章・消失点/50=平野啓一郎
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