『マチネの終わりに』第一章(5)
細く白い首には、黒と萌葱色のチェック地に、花柄がちりばめられたストールを巻いている。軽いダメージのデニムが、まっすぐに伸びた足によく似合っていた。
蒔野は、終いにはやや不用意なほど長く、彼女を見つめていた。そして、いよいよ順番となり、近づいてきた時には、むしろ慌てて視線をジュピターの担当の是永に逃がした。
是永は、彼に賞賛と労いの言葉を手短に伝え、傍らの女性を紹介した。
「こちら、小峰洋子さんです。RFP通信の記者さんです。」
洋子は、笑顔で「おめでとうございます。」と握手をした。欧米人が、コンサートのあとに言うCongratulations!だとか、Félicitations!だとかを直訳したような響きがあった。日本的な甘い感じのない薄化粧で、名前は「洋子」だが、顔立ちからすると混血かもしれない。
「アンコールのブラームス、とても好きな曲なんです。編曲、素晴らしかったです。」
蒔野は、目を見開いて喜びを露わにした。アランフェスではなく、その曲を挙げたのは彼女が初めてで、しかもそれは、彼自身が今晩唯一――それも辛うじて――満足できた演奏だった。
「ありがとうございます。なかなか、一人で弾くのは骨が折れる曲ですけど。」
「本当に、うっとりしました。」と、彼女はあまり大袈裟な笑顔を作らずに胸に手を当てた。低く響く声――それも、声質というより、発声の仕方のせいで。「……どこか、遠い場所に連れて行ってくれるような、そう促されて、そっと手を引かれているような。」
蒔野は如才なく、ダンスにでも誘うように腕を差し伸べると、
「実は、舞台の上からお誘いしてたんです。」
と笑った。洋子は、彼のそうした、ほとんど軽薄にさえ見える態度を、意外に感じた様子だった。
「気をつけてくださいよー、洋子さん。蒔野さん、ゲイじゃなくて、モテるのにこの歳まで独身って人ですから。推して知るべしです。」と是永は言った。
「また、人聞きの悪いことを。……」
第一章・出会いの長い夜/5=平野啓一郎
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