『マチネの終わりに』第四章(5)
蒔野は恐らく、最初に会った時から、洋子を愛し始めていた。あの夜は、もうそのようにしか振り返り得なかった。そして、その時抱いた彼女への憧れは、今では乗り越えるべき彼女までの距離だった。
彼女がバグダッドにいた間は、さすがにそれどころではなく、その思いは抑制され、ある意味では、曖昧なままに留めておくことが出来た。
しかし、彼女が帰国した今や、彼は、この愛の処し方について、ひどく性急で、極端な二者択一を迫られていた。
蒔野は、パリでの洋子との再会が――それも、二人きりで会うのは初めてだった――、一体、何を実現しなければならないのかを考えて悲観的になった。
たった二回会っただけで、彼女は自分を愛し、既に日取りまで決まっている別の男との結婚を取り止める決断をしなければならないのだった。年齢を考えるならば、それはつまり、彼女が自分との結婚を選択するという意味でもあった。
蒔野は人生で初めて、結婚ということを真剣に考えてみて、これまでの長い無関心が嘘のように、唐突にその気になった。
もし次に会った時、ただ一度目の交歓を確かめ合う程度で別れたならば、二人は結局、人生の中で「二回会ったことがある人」という関係で終わってしまうだろう。
真っ当に考えるならば、そして、その可能性の方が遥かに大きかった。
蒔野は、いても立ってもいられなくなって、当初、乗り継ぎだけの予定だった往路も、パリに数日滞在することにした。ただし、洋子には、あなたのためにとは言わず、たまたま用事が出来たからと説明した。どんな恋愛にも、その過程には、こうした装われた偶然が一つや二つはあるものである。そして、しばしばその罪のない嘘は、相手にも薄々勘づかれている淡い秘密である。
蒔野がそれを伝えると、洋子からは、
「もちろん、五月末も空けておきます。でも、いいんですか、二日もわたしが蒔野さんを独占してしまって?
第四章 再会/5=平野啓一郎
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