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『マチネの終わりに』第二章(16) 第三章(1)

 これまで通り、彼は自分が、音楽家として、もう一段上の高みにまで至り得ることを信じていた。しかし、そのつもりでいながら、どうも目指していたのとは違う、もっとつまらない山を登っているような気がした。自分だけじゃない。端からもその実、そう見えているのではないか?
 彼は孤独を感じた。そして、それを悟られたくない気持ちと、理解されたい気持ちとを同時に抱いた。
 そういう経験は、これまでなかった。
 しばらく天井を眺めていたあと、彼は自らを鼓舞するように体を起こした。そして、自然とあの夜、終演後の楽屋でしていたのと同じ姿勢になって、両手で顔を何度もこすった。
『どうすべきか、今まで通り、根気強く、具体的に考えるだけだ。《ヴェニスに死す》もクソもあるか。もう一度、スコアを眺めて、ギターを弾きながら録音を聴き直せばいい。難しく考えることじゃないだろう?……』

 第三章 《ヴェニスに死す》症候群(1)

「大丈夫か?――ヨーコ、ダイジョブ?」
 男の声がして、洋子の胡乱な瞳に、窓の外の風景が戻った。
 砂で霞んだ冬空に、かすかに午後の太陽の光が滲んでいる。
 薄曇りの灰色とは違う、砂の黄土色と空の青とが濁って出来た色。
 そこに、一筋の黒い煙が立ち昇ってゆく。
 バグダッドにいる、と洋子は、わかりきったことを考えた。
 チグリス川西岸のハイファ・ストリートに建つムルジャーナ・ホテルにいる。そう言葉で支えなければ、現実は独りで立っていられずに、崩れ落ちてしまいそうだった。
 つい今し方、どこか遠くで、またいつものように爆発音がした。恐らくは、自動車爆弾テロだが、彼女は、想像力が慌てて現場に駆けつけようとするのを、それとなく腕を引いて止めていた。耳を劈くほどの凄まじい音は、ここに届くまでの間に、距離がすっかり手懐けていた。


第二章・静寂と喧噪/16、第三章 《ヴェニスに死す》症候群/1

=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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