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『マチネの終わりに』第五章(29)

 しかも洋子は、彼が求めるならば、更に残酷な犠牲でさえ厭わぬような無防備な気色で、まっすぐに立っていた。

 蒔野は、自分のために、まるでその存在そのものを差し出して、ただ待っているかのような彼女の佇まいに心を震わせた。彼女はこんなふうに人を愛するのか――こんなふうに自分を、と。そして、時間の中で、その踏み出した一歩のために立ち竦む彼女を、彼は深く内から押し広げられてゆくような幸福とともに抱擁した。

 あのパリでの再会の翌日、蒔野が既にマドリードに発ってしまってから、洋子は、思わせぶりな態度に終始していた自身のからだから、何食わぬ顔でその誤解を訂正されることとなった。生理が来たのだった。

 こんな見計らったかのようなタイミングも、女の人生では、折々あることとして済ますより他はなかったが、遅配されたからといって、手紙の中身が変わるわけではないように、生理は生理であり、その意味するところは明白だった。

 洋子は、今はもう、自分の心に忠実に従いたいと強く思った。人に決断を促すのは、明るい未来への積極的な夢であるより、遥かにむしろ、何もしないで現状に留まり続けることの不安だった。

 後悔の訪れはまだ先であるはずなのに、既にして彼女の足許は、その冷たい潮に浸され始めていた。そこでただ、目を瞑ってじっとしていることは出来なかった。

 蒔野が言った言葉を、洋子は自分自身の言葉として、幾度となく語り直した。彼を愛さなかった小峰洋子という人間もまた、もうどこにも存在しない非現実なのだと。

 リチャードには、スカイプで婚約の解消を申し入れたが、気が動転したまま、まともな会話にならなかった彼は、翌日、大学を休講にしてニューヨークから彼女の元に飛んできた。

 長い話し合いだった。

 彼のことが嫌いになったわけではなかったので、激昂し、悲嘆し、感傷的になってあれこれ思い出話を語り、冗談を捻り出しながら、酷く取り乱して「どうして?」と繰り返すその姿に、洋子の胸は痛んだ。


第五章 再会/29=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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