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『マチネの終わりに』第六章(7)

「ああ、是非お願いしたいけど、緊張するな。……会ったばかりで、いきなりそんなデリケートな質問すると、無神経な人間だと思われるよ。」
「怖そうに見えるけど、優しい人よ。」
「それは、あんな映画撮ってるんだから、深い優しさのある人だと思うけど。」
「わたしには話さないことも、あなたになら話すかもしれない。アーティスト同士だし、父はクラシック・ギターが大好きだから。きっと気が合うと思う。」
「うちは両親とも亡くなってるけど、お母さんにも、近いうちにお目にかかりたいな。」
「そうよね。今度、長崎の実家に一緒に行く? 母も今は独り暮らしだから、帰国したら出来るだけ顔を見に行くようにはしてるの。」
「叶うなら、それも是非。」
「母はアーティストでも何でもないけど、大分変わってる。あの時代に、ヨーロッパのあっちこっちに行って、ユーゴスラヴィア人やスイス人と結婚してるんだから。」
「それは、どうしてなの?」
「本人は話さない、何度尋ねても。長崎にいるのが嫌だったとは言ってるけど。母は、――まだ記憶も曖昧な頃に被爆してるのよ。少し南の方だったから助かったけど。そのことでさえ、わたしにずっと隠してた。祖母にも口止めして。だから、わたし自身は、母から直接って言うより、大人になって自分で本を読んでから知ったの、原爆については。」
「家に行った時に、そういう本があったから、ひょっとしてと思ってたけど。」
「そう、井上光晴とか、林京子とか、……竹西寛子、原民喜、……小説だけじゃなくて色々、仕事の必要もあって。女性は、被爆者への結婚差別があったから、母の性格からすると、そういう重たいもの全部から、自由になりたかったんじゃないかしら。」
「……なるほど。」
「逃げ出したっていう負い目で、人生をどこか楽しみきれないところと、その反対に、後遺症の不安から楽しまなきゃって焦る気持ちと、どっちもあったって、父は言ってた。――父みたいな人に惹かれるのも理由があるのよ。理解してほしかったんだと思う。……わたし自身、どうしてイラクに二度も行ったのか、あれからまた自問自答してるけど、やっぱり、そういうルーツの問題もあるわね。あんまり認めたくはないけど。」


第六章・消失点/7=平野啓一郎 

#マチネの終わりに


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