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『マチネの終わりに』第二章(11)

 昼になってスープとサラダの簡単な昼食を摂ると、蒔野はギターの練習を始める前に、またパソコンをチェックした。しかし、三通の受信は、いずれも広告メールだった。
 それから、ル・モンド紙のウェブサイトに移動して、バグダッドのムルジャーナ・ホテルで起きた自爆テロ事件の続報を探したが、新しい情報は見つからなかった。
 ニュースでホテルの名前を目にした数日前、蒔野は息を呑んでそのまま動けなくなってしまった。洋子が働いているRFP通信社の事務所が入っている建物だった。
 バグダッドから、彼女は何度か、蒔野にメールを書き送っていて、そのうちの一通には、部屋に置かれた彼のバッハのCDの写真が添付されていた。音だけならiPodで聴けるはずだが、彼女はCDを一枚、持って行ってくれたのだった。
 他の海外メディアも多くそこに滞在していて、RFP通信社は、その七階を借り切っていた。自爆テロは、一階のロビーで発生し、会合に集まっていた地元部族の長や警官など、三十人以上が死傷したらしい。
 犠牲者の中に、洋子の名前を見つけたわけではなかった。しかし、記事では、外国メディアの記者も数名含まれているとされていた。蒔野は、時間が止まったかのような感覚に襲われた。それから、「……え?」と声が漏れ、眉を顰めて身を乗り出すと、もう一度、パソコンで記事を読み返した。考える間もなく、心拍の方が先走って不穏に昂ぶっていた。
 洋子は巻き込まれていないだろうか? 安否を知りたくて、すぐ様、彼女にメールを書き送った。それから、念のためにもう一通書いたが、返事はない。これまでは、「外に出られないから。」と、メールを送ると、一日と置かず返信があったのだったが。
 最悪の想像とそれを打ち消す考えとが目まぐるしく去来した。緊張と弛緩との頻繁な繰り返しが彼を消耗させ、やがて麻痺したような曖昧な不安が胸に澱んだ。

 彼は何度か、三通目のメールを書きかけていた。しかし、書くべきことは既に書いていた。同じ内容を反復していると、その言葉は恐らく――前の二通と同様に――洋子にまでは届かないのだろうという感じがした。


第二章・静寂と喧噪/11=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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