『マチネの終わりに』第三章(18)第四章(1)
「惚れてる」とフィリップは言った。その余計な一言は、彼女の気持ちを、既に後戻りの出来ない方向へと衝き動かしつつあった。
胎児のようにからだを丸めて、改めてリチャードとの会話を思い出した。
帰国して、自分は彼と結婚するのだろうかと考えた。
子供を作る。彼との間に。――それが自分の新しい生の一歩となることは、疑い得ない。自分の年齢を考えた。あと半年で四十一歳になる。時間が限られているという事実が、心に重く伸しかかった。
第四章 再会(1)
蒔野は、既にフランスに帰国しているはずの洋子から、三月末まで音沙汰がなかった時点で、一度、彼女への自分の気持ちを整理しようとした。
彼女の身は、依然として案じていたものの、何をしていても気持ちが重たく沈み込んでゆくような不安は、日を経るごとに曖昧に薄れつつあった。
二月までやりとりしていた二人のメールを読み返して、自分の調子っぱずれな陽気さに溜息が出た。相手は内戦状態のバグダッドにいるというのに。どういう神経をしているんだ、俺は、と恥ずかしくなった。
「楽しいメールの方が気が紛れるから」と洋子に促されるがままに、彼は、毎回一つは、メールの中に選りすぐりの笑い話を書いた。彼女もそれを、「こっちのスタッフにも聞かせてあげようとしたんだけど、思い出すと、わたしが自分で笑ってしまって、『ヨーコ、何言ってるのか、全然わからないよ。』って呆れられました。」と喜んでいた。蒔野は、鼻梁の付け根にしわを寄せて笑う彼女のあの美少年風の表情を思い出して、パソコンの前で笑みが零れた。
しかし、間近で凄惨な殺戮が繰り返されている日々の中で、彼女がそれらのメールを、本当のところ、どんな心境で読んでいたのかはわからなかった。
無理をしていたのかもしれず、実際に、最初は楽しんでいたのかもしれない。いずれにせよ、ホテルでの自爆テロ以後、そのすべてが耐えられなくなったというのは、彼にも想像できた。現実逃避の笑いが虚しくなると、改めて自分とどう連絡を取り合えば良いのか、冷めた気持ちで考え直すのも尤もだった。
第三章・《ヴェニスに死す》症候群/18=平野啓一郎
第四章 再会(1)
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