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『マチネの終わりに』第六章(41)

 洋子と連絡を取る術がなくなってしまった。約束の時間までにはまだ余裕があるので、彼はとにかく、受付に尋ねて奏(かな)の元に急いだ。

 奏は、一人でベンチに座って手術が終わるのを待っていたが、蒔野を見ると、立ち上がって涙ぐんだ。憔悴していた。蒔野は、肩の辺りに手を添えて宥めながら、

「大変だったね。」

 と声を掛けた。

 祖父江は、妻を亡くした後、ギター教室を併設した――蒔野もよく通った――自宅で、独り暮らしをしており、奏は家族を連れて、月に一、二度は様子を見に行っていた。今日は丁度その日だったが、倒れているのを発見した時には、既にかなり時間が経っていたらしい。

 手術が成功するかどうかはわからず、うまくいったとしても、麻痺が残ることになるだろうと、事前に説明を受けていた。

 響(ひびき)には連絡をして、出来るだけ早く帰国するように伝えたが、他の人にはまだ話していないという。

 一通りの検査を終えて、手術は始まったばかりらしく、三時間ほどかかると言われていた。

 蒔野は、時計を見てしばらく考え、今晩洋子に会うのを諦めた。ジャリーラの時のこともあり、急な予定変更を、彼女はきっと理解してくれるだろう。他ならぬ事情であるだけに。――彼女も、フライトの遅れで疲れているのではないかと思ったが、それだけに、九時頃に新宿に着いて、ホテルを探させるのは忍びなかった。自宅を使ってもらいたかったが、どうやって連絡を取るべきか。

 携帯電話を忘れたのは、恐らく一台目のタクシーだった。家を出る時には、やはり手に持っていた記憶がある。どこのタクシー会社だったか、社名を思い出せない。降りたあとで謝罪らしい声が聞こえていたが、あれは実は、電話を忘れていると言っていたのだろうか? それなら今頃は、警察に届けられているのかもしれない。……

 蒔野は、恩師の死の危機に瀕して、その恢復を祈ることも、懐かしい回想に浸ることも出来ない自分の焦燥を持て余した。

 その後のフライトが順調なら、洋子はそろそろ、成田に到着する頃だった。


第六章・消失点/41=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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