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『マチネの終わりに』第六章(53)

 過去は変えられる、と彼は言った。変わってしまうとも。――あんなに楽しそうに喋っていたあの笑顔も、無理に演じたものだったのか?

 そんなはずはないと、彼女はただちに打ち消した。けれども、彼女が今し方目を通したたった一通のメールは、既にして、彼との思い出の一瞬一瞬に、暗い陰りを染み渡らせつつあった。

 なぜ今になってと、彼を責める気持ちがあった。しかし、今だからこそだった。つまり、結婚というこれまで曖昧に同意されていた約束を、確定せねばならない機会だったからこそ、彼はギリギリまで逡巡し、結局、違う運命の選択をしようとしているのだった。

 パリを発つ前に告げられていたなら、それで納得して、自分は日本に来なかっただろうか?――やはり、来ていただろう。せめてもう一度、彼と会って話がしたいと。

 洋子は、自分のリチャードに対する仕打ちを思わざるを得なかった。因果なものだった。彼とて矢も楯もたまらず、あの時は、ニューヨークから飛んできたのだから。

 自分は、リチャードのように蒔野に対して振る舞うべきだろうか?

 彼女は蒔野を愛していた。折々、胸を潰されるほどに苦しい恋の衝動も経験していたが、それと同時に、彼女は蒔野のことが、何と言うのか、人間としてすっかり好きになっていた。

 彼と向かい合っていると、何も特別なことのない単なる日常会話が、人生の無上の喜びと感じられる一瞬がしばしば訪れた。それは、ほとんど不可解とさえ思われるほどの、何かしら奇跡的なことだった。

 この世界は、自分で直接体験するよりも、一旦彼に経験され、彼の言葉を通じて齎された方が、一層精彩を放つように感じられた。その少し歪な繊細さも、段々と理解できるようになってきていて、愛おしくもあり、また時にはおかしくもあった。相変わらずね、と。

 そういう時には、二歳とはいえ、彼は年下なのだとふと思った。そして何より、音楽家としては、心からの尊敬と憧れを抱いていた。

 彼を理解すべきじゃないかと、洋子は自問した。


第六章・消失点/48=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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