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『マチネの終わりに』第四章(9)

 苦笑して頭を掻く蒔野に、祖父江は、
「珍しいですね、あなたでもそういうことがあるんですか?」
 と、昔と変わらない、静かな重々しい口調で、含蓄のある皮肉を言った。そして、
「騒がれているような外的な事情ならともかく、内的な理由なら、せっかく止めてまで作った時間を、有効に活用しなければと、あまり思いつめない方がいいでしょうね。――あなたのことだから、色々考えてはいるでしょうけど、老婆心ながら。」
 と真面目な、少し心配する風な面持ちで言った。それ以上の言葉のやりとりは不要だった。さっきの演奏で、先生は何もかもお見通しなのだろうと、蒔野は感じた。
 蒔野は、今でも新作を出す度に、祖父江に必ずCDを送っている。世界中から、毎月ウンザリするほどそういうサンプルが届いているはずだが、祖父江は、そのすべてに耳を通して、丁寧な手書きの礼状の葉書を送っている。蒔野は、恩師のそういう律儀さを、自分には決して真似の出来ないことだと尊敬していた。そして、ここ数年、自分のCDへの感想が遅く、少し遠慮がちであることを気にしていた。
 かつてのような昂揚した賞賛の言葉はなりを潜めて、理解しようとする心づかいが端々に看て取れた。それは丁度、彼が、より多くの聴衆に向けての演奏を意識し始めた時期と合致していた。
 蒔野の《この素晴らしき世界》のキャンセルを、そんなふうに、彼の演奏家としての問題に関係づけて見ていたのは、しかし、ほとんど祖父江一人だった。他の者たちの憶測は、また思いがけないもので、祖父江が「騒がれているような外的な事情」と言ったのは、その噂に由っていた。蒔野は敢えて訂正せずに、曖昧にしたまま、それを隠れ蓑とすることにした。
 ジュピター・レコードの岡島との面会で、蒔野は、予期せぬ事実を告げられていた。
 イギリスの本社の決定で、近々ジュピターは、グローブ・ミュージックに買収される、というのである。イヴェントで会った音楽関係者らも専らその話で持ちきりで、彼の決断は、よくわからないが、何かそのことに関係しているのだろうと思われていた。


第四章 再会/9=平野啓一郎 

#マチネの終わりに


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