『マチネの終わりに』第四章(33)
「それは、そうね。ここの人たちは、数代前の先祖は全然違う土地に住んでたっていうの、本当に多いから。だからこそのナショナリズムなんだろうけど。」
「俺は、……自分がヨーロッパ音楽の神髄みたいなバッハを、どこまで理解できるのかって、やっぱりいつも考えてしまう。古楽器を弾いてると、余計に意識させられるよ。洋子さんが今、水溜まりでも飛び越えるような調子で到達した認識に、俺は数年がかりでまず橋を架けて、やっとどうにか谷間を越えるような感じだよ。そういうところには、憧れるな、やっぱり。文化的な厚みっていうのか。……十九世紀のロマン主義以降になると、エモーショナルな部分とか、感覚的なところとか、まだアプローチしやすいけど、バッハは彼個人を超えた部分が大きすぎるから。神の存在もそうだし、バッハ一族っていうあの家系もね。……」
「あんなに素晴らしいバッハを弾いてる当人が、そんなふうに思うのね。わたしについては、明らかに買いかぶりすぎだけど。――わたしは、だけど、蒔野さんの演奏を聴いてると、よくこれだけ色んな国の、色んな時代の曲を、まるで作曲家自身みたいに弾けるなって感心してるのよ。」
「そういうギタリストだと目されてる。その分、個性がないなんて悪口もよく書かれたけど。だけど、演奏家だからね。やっぱり、作品の解釈は、出来るだけ作曲者の意図なり、心境なり、世界観なりを掴もうとするのが、せめてもの誠実さだと思うよ。」
「人の心も、そんなふうに何でもお見通しなの?」
「それはまた、全然別問題だよ。」蒔野は失笑した。「マネージャーに言わせると、俺は自己分析には長けてるけど、他人の心には鈍感なんだって。」
「ああ、……三谷さん?」
「そう。」
「健康的で素敵ね、彼女。――で、その分析は当たってるの?」
「どうだろう?……どう思う?」
洋子は、蒔野の目を数秒間、黙って見つめた。そして、少し寂しげな微笑を浮かべて、首を横に振りながら、
「まだわからない。蒔野さんに会うの、まだ、二回目だから。」
と言った。
第四章 再会/33=平野啓一郎
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