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『マチネの終わりに』第六章(51)

 今だけは何も起きないでほしかった。

 洋子は、気を確かに持たねばと、唇を固く結んで息を吐いた。少し汗ばんだ右手を握って、親指で人差し指を擦っていたが、急にそれを止めると、カウンターの上の左腕に手を置いて、俯き加減に時計を軽く打ち続けた。

「お待たせしました、担当の者がお部屋までご案内します。」

 巨大なシャンデリアが下がっている吹き抜けのロビーには、様々な国の言葉が溢れていた。つい今し方、銃撃戦があったばかりの現場で、人々の絶望的な悲嘆を取材し、ようやくムルジャーナ・ホテルへと戻ってきた時の記憶が蘇った。

 あの時とは違う。同じのはずがないと、彼女は自分に言い聞かせた。ここは決して、四方八方のどこから銃弾が飛んでくるやも知れないバグダッドなどではない。自分は、東京にいる。安全な東京に。自分はただ、「設定値が非常に過敏なセンサー」のように、何でもないことのために不安になっているだけなのだ。

 ここでは何も警戒する必要はない。自分は確かに、生きて無事にバグダッドから帰ってきたのだから。……

 あの時には、自室に戻ってドアにしっかり鍵を掛け、シャワーで砂埃を落とし、寛いだ格好で、蒔野のバッハの演奏に静かに身を委ねることが、緊張から解放されるための何よりの方法だった。

 PTSDの発作はパリからのフライト中も心配だったが、東京に辿り着きさえすれば、自分は救われるのではないかと夢見ていた。思いがけない感情の暴発で、この愛を台なしにしてしまうことを恐れながら、それでも、彼の愛の安らぎの裡に慰安を求めていた。

 しかし今、彼女を突発的な恐慌の危機に陥れているのは、まさしくその彼から届いた一通のメールだった。――『あなたのことがずっと好きでしたが、この先もそうである自信を持てません。……』という一文が、また脳裏を過ぎった。

 ベルボーイに案内されて一緒にエレヴェーターに乗り、二十二階の部屋へと向かいながら、洋子は先ほど頭上にあったシャンデリア越しにロビーを見下ろした。地上から遠ざかってゆく。ガラス張りのエレヴェーターは、やがて暗転し、雨の降りしきる夜景に包まれた。


第六章・消失点/51=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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