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『マチネの終わりに』第一章(4)

 三谷は、楽屋に入る前の蒔野から、ノックしないでほしいと、一言、言い渡されていた。その意味はわからなかったが、とにかくそれを忠実に守ったのだった。

 やがて、蒔野は、「あ、どうも、お待たせしました。」と自分から楽屋を出てきた。そして、

「いや、なんかもう、くたびれ果てちゃって。四十も目前となるとこうですかね。」と戯けて首を回してみせた。

 白い、よく見ると星柄の刺繍が入ったシャツに黒いジャケット、それに濃いモスグリーンの細身のカーゴパンツに着替えていた。顔は幾らかさっぱりしていて、髪も整えられている。笑顔だったが、誰の方を向いたものやらと、しばらくきょろきょろしていた。

 関係者は、彼の平気そうな表情に安堵したが、ふと目をやった楽屋のゆかに、750mリットルのペリエの瓶が一本、空になって転がっていたのを、皆がなぜか覚えていた。あとで誰からともなくその話になり、「そうそう! わたしもあれが妙に気になって。」と頷きあった。しかし、それが何を意味しているのかはわからなかった。多分、本人も言っていた通り、疲れていたのだろう。

 面会希望者の多くが、蒔野が楽屋に四十分も籠もっていた間に、諦めて帰ってしまっていた。彼は、ねばって待っていた幾人かと、頗る愛想のいい、丁寧な挨拶を交わした。列の最後には、レコード会社のジュピターの担当者である是永慶子が、連れ合いらしい女性と談笑しながら待っていた。

 蒔野は、順番が来る前から、彼女らの姿を、二度三度と見ていた。実は、舞台の上からも、二階の招待者席に座るその見知らぬ女性の存在には気がついていた。是永を探し当てた彼の視線は、そのまま引き寄せられるようにして脇に逸れ、しばらく留まった。その時にはよく見えなかった色白の小さな顔が興味をそそった。

 やや張った肩に、艶のある黒い髪が、足でも組んでいるかのように掛かっている。鼻筋の通った彫りの深い造りだが、眼窩は浅く、眉はゆったりとした稜線を描いている。二分ほど開き残したかのような大きな目は、少し眦が下がっていて、笑うと、いたずら好きの少年のような潰れ方をした。


第一章・出会いの長い夜/4=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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