『マチネの終わりに』第四章(36)
「洋子さんが自殺したら、俺もするよ。これは俺の一方的な約束だから。死にたいと思いつめた時には、それは俺を殺そうとしてるんだって思い出してほしい。」
「酔ったの?」
「全然。――苦しんでいるのに平気そうにしてる人間が、その苦しみの源を、何か破滅的な方法で絶とうとするのは、……恐いよ。そうすることで、同時に自分が苦しんでいたことを、人に理解してもらおうとするのも。――《ヴェニスに死す》、原作を読んだよ。それで、伝記的な文庫のあとがき読んで、トーマス・マンって作家のこと、考えてたんだ。妹二人が自殺してることとか、あと、長男もかな。俺は全然詳しくないけど、あの人はあの小説で、主人公に身代わりになってもらったことで、自分は生き続けられたんじゃないかと思う。」
「ああ、……それで? 大丈夫よ、わたし、自殺なんて考えたことないから。」
「だからこそ、心配なんだよ。だから、……『ヴェニスで死なずに帰ってきたアッシェンバッハ』って、洋子さんが自分で書いてた話は不穏だよ。それで、原作読んだんだ。洋子さんとこうして話すために。――いつも側にいられて、いつも俺に話してくれるなら、他に洋子さんを支える方法があるけど、それがままならないなら、今言ったみたいな方法しか思いつかない。馬鹿な考えかもしれないけど、俺は一度口にしたからには、必ずその約束を守る。」
「やめてよ。……やめて。」
洋子は、困り果てたように、ようやく苦い笑みを口許に過らせた。
「洋子さんの存在こそが、俺の人生を貫通してしまったんだよ。――いや、貫通しないで、深く埋め込まれたままで、……」
蒔野は無意識に、シャツの胸を掻き毟るように強く掴んだ。そして、どうしていいのかわからなくなって、一層力を込めると、その奇矯な仕草をごまかすかのように、シャツに出来た皺をぞんざいに撫でつけた。銃創から溢れた血でも気にする様子で、ちらと胸と掌に目を落とした。彼は会話のただ中で立ち尽くしてしまった。
第四章 再会/36=平野啓一郎
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