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『マチネの終わりに』第五章(25)

 蒔野は、その戦慄的な一節を、雄々しく悲壮に歌い上げるのではなく、やさしく包み込むようにして――しかし格調高さは失うことなく――読んだ洋子の声に聴き入った。ジャリーラのために、そういう調子になったのかもしれない。深いまろやかな響きで、彼女がいつも、少年のようにあどけない小皺を寄せる鼻梁は、中性的というより、むしろ天使的な、両性具有的な美しさにすっと冴えて額へと抜けた。

 ジャリーラは、その難解な詩句の意味を理解しようと考えながら、少し戸惑っている様子だった。蒔野は、

「ドイツ語の原文で読むとどうなるの?」

 とリクエストした。

「ドイツ語は読み書きできるけど、詩の朗読はとても、……」

 洋子は、控え目に首を傾げて本文に目を落とすと、一呼吸置いてから、「Wer, wenn ich schriee, ......」と、哀歌を特徴づけるその韻律を、十分音楽的と感じられるほど流麗に辿った。

 蒔野もジャリーラも、その立派なことに感心して、読み終えると覚えず拍手した。洋子は首を振って、

「上手じゃないの、これは本当に。――わたしじゃなくて、蒔野さんの演奏を聴くはずだったんでしょう?」

 と彼に水を向けた。蒔野は、戯けたように、忘れていた、という顔をすると、ジャリーラの方を向いて言った。

「第五の哀歌は、広場に集まった、たくさんの大道芸人たちを見物している詩なんだよ。俺は上手く説明できないけど、他の歌とは大分、趣が違う。思索がぐーっと内に深まっていく他のとは違って、目が外に向いてるから。……広場とその大道芸人たちは、この世界の象徴と取っていいのかな? 誰ともつかない不満足な意志のために、芸を続けてる彼ら。――人間は、生きること自体を懸命に、滑稽に人目に曝し続ける。……映画では、戦争で破壊し尽くされた町並みを背景に、この第五の哀歌の最後の部分が朗読されて、美しいギターのテーマ曲で終わるんだよ。何遍見ても胸が締め付けられる。」


第五章 再会/25=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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