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『マチネの終わりに』第六章(37)

 ジャリーラは、彼が初めて、洋子と一緒に心配し、手を差し伸べたいと願った掛け替えのない存在だった。
 来日期間の短さについて、蒔野は、
「そんなにすぐパリに戻るの?」
 と洋子に尋ねたが、彼女はそれに対して、
「うん、ジャリーラのことも心配だから。……」
 と言葉少なに答えていた。
 蒔野はその時、自分があまり良い返事をしなかった気がしていた。洋子ともっと長い時間を過ごせると思っていたので、落胆したのは事実だった。しかし、自分がジャリーラの存在を疎ましく思っているわけではないことは知ってほしかった。
 正式な難民認定を受け、ジャリーラは今では、洋子と別居することも可能だった。三年ほど経てば、市民権を得ることも出来る。元々、亡命先としてスウェーデンを選んだのは、非合法の仲介業者の都合であり、ジャリーラは、このままフランスに住み続けたいと思い始めているらしかった。
 洋子は、パリで暮らす中東やアフリカからの移民の生活難を知っているので、それが本当に良いのかどうか迷っていたが、いずれにせよ、フランス語の能力が問題になるので、少し前から教え始めたと語っていた。
 結婚後の生活の拠点は、当面、東京に置くということで落ち着きつつあった。しかし蒔野は、ジャリーラを独り残してパリを去るという決断を、洋子は下せないのではないかという気がしていた。洋子と一緒にいたかった。しかしそのために、あの日、自分の音楽にあれほど感動してくれたジャリーラを孤立させることは忍び難かった。
 東京ではそのことも話し合わなければならない。そうした複雑な思いが、洋子からあまりに短い滞在計画を告げられた時に、覚えず露わになってしまった。

 ジャリーラのために。――そうして、《この素晴らしき世界~Beautiful American Songs》の着手に納得する一方で、その先の提案に関しては、畢竟、自分の演奏に満足し、精神的にゆとりのある時でなければ無理だろうとも感じていた。


第六章・消失点/37=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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