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『マチネの終わりに』第四章(13)

 木下音楽事務所の三谷は、蒔野からマドリード行きのスケジュールを変更して、往路も、経由地のパリに滞在したいと言われた時、その意味するところをすぐに察した。洋子に会うのだ、と。
 蒔野の女性関係は、マネージャーとして普段から彼の側に付き添っていても、なかなか窺い知ることが出来なかった。何かあるのだろうという雰囲気はあった。実際、コンサート終了後のサイン会などで、列に並んでいる女性と、明らかに単なるファンとは違ったやりとりをしているのに気づいたことがある。言葉数が少ない分、むしろ、事前にも事後にも意思疎通があるように見えた。勿論、ただの思い過ごしかもしれない。いずれにせよ、特定の誰かの存在を感じたことはなかった。
 しかし、洋子に関しては、わかりやすかった。彼女と出会ってからというもの、蒔野は人に会う度に、あのイェルコ・ソリッチの娘に会った、という話をした。よほどの映画ファンでなければ、すぐにピンと来ない名前のはずだが、さすがにこの業界では、《幸福の硬貨》の監督と言えば、誰でも「へぇー、」と関心を持った。そして、どんな人なのかと訊かれるのを待ち構えていたかのように、蒔野は身を乗り出した。
「RFP通信で働いてるんだけど、――いやあ、きれいな人だよね。……きれいなだけじゃなくて、フランス語とかドイツ語とか、なんか、何カ国語も喋れるんだよ。オックスフォードとコロンビアを出てて、とにかく頭が良くてさ。そういう人ならではのユーモアがあって、親切で、……」
「そんな人、いるの?」
「いたんだよ、それが。親が親だけに、芸術にも造詣が深いし、感性も豊かで。リルケをやってたんだって、大学で。」
 三谷は、蒔野が誰かについて、こんなに生き生きと話をするのを初めて見た。決して褒めすぎというわけでもなく、洋子について説明するなら、そう言うより他はなかったが、ただ、「きれい」というのとは、ちょっと違う気もしていた。――「個性的な顔立ち」というのではないだろうか。それがどういう意味なのかはうまく説明できないので、結局「きれい」でいいのかもしれないが、ただ、女同士なら、感覚的にわかるはずだった。


第四章 再会/13=平野啓一郎 

#マチネの終わりに


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