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『マチネの終わりに』第六章(12)

 二週間ほど経って、最初の動揺が治まると、リチャードは唐突に、洋子の「浮気」を「赦す」と言い出した。
 命の危険をも顧みず、イラクになど行っていたのだから、いかに君が強い女性だと言っても、精神的に不安定になるのは仕方のないことだ。そういう時に、側に寄り添っていられなかった点については、自分にも非がある。裏切りは裏切りであり、深く傷ついたが、“マリッジブルー”の時期には、表だって語られないだけで、実はよくある話だ。
 すべてを水に流して結婚しよう。自分はその「浮気相手」の何倍も君をよく知っている。まだ君が、可憐な――しかし、今と変わらず聡明だった――大学生だった頃から! 自分の愛情は些かも揺らいではいないし、むしろ強くさえなった。そのことを信じて疑わないし、君にも信じてほしい、と。
 新しい恋ではなく、束の間の「浮気」に過ぎないというリチャードの説得は、当然のようでありながら洋子には意外だった。というのも、彼女はこれまで、リチャードに限らず、交際中に「浮気」をしたという経験がなかったからだった。
 その口調には、誰かに助言されたかのような直截さがあり、突飛な連想だったが、洋子は、深夜のテレビショッピングで、高枝切りバサミや高圧洗浄機の宣伝を見ている時のように、この説得方法は非常に便利で、どんなシチュエーションの別れ話でも「使える」のだろうという感じがした。
 洋子はそれで、彼との復縁を望むようになったというわけではなかったが、自分のいる場所が、急にわからなくなるような感覚はあった。
 リチャードと別れ、何も疚しいところのない自由な身になってから、彼女は自らに、蒔野との愛を許したはずだった。しかし、リチャードの認識の中では、彼女はまだ彼との愛の圏内にいて、ただ気まぐれを起こして、ちょっと息抜きに、そこらをウロついているという程度のことなのだった。
 洋子は、そうした彼の考えに、当然反発したが、それは、繊細なニットに引っかかってしまったアクセサリーか何かのように、慎重に取り扱わなければ、彼女の心に取り返しのつかない痕を残してしまいそうだった。


第六章・消失点/12=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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