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『マチネの終わりに』第四章(6)


 前篇・後篇で、長い話ができますね。一日ずつ、それぞれの人生について話しましょう(笑)。
 でも本当に、マドリードのフェスティヴァルの前だし、無理なさらないでくださいね。直前にキャンセルでも、わたしは平気ですので。」
 という返事が届いた。
 蒔野はその返事を、二度三度と読み返した。そして、約束を取りつけたことに安堵はしたものの、少し頭を冷やすべきかもしれないとも感じた。
 実際、洋子の心配通り、今の調子で、マドリードのフェスティヴァル前に、そんな余裕があるのだろうかという懸念もあった。プログラムには、マヌエル・バルエコやデヴィッド・ラッセルといった世界中の大家が名を連ねていて、インターネットでライヴ映像を配信するという試みも注目を集めていた。
 音楽家として、自分は今、難しい時期に差し掛かっていると蒔野は感じていたが、環境の変化が、そこに更に追い打ちを掛けていた。
 蒔野が《この素晴らしき世界》のレコーディングをキャンセルしたという噂は、どこからともなく広まっていて、彼は、四月末までに参加した複数の国内の共演コンサートで、同業者と顔を合わせる度に、その真相を尋ねられた。まったくの個人的な問題だと思っていた彼は、それに面喰らったが、理由は後でわかった。
 蒔野が十代の頃に長く師事した祖父江誠一も、「なぜ?」と理由を訊いた一人だった。
 祖父江は、戦前生まれの、セゴビアに直接指導を受けたような世代のギタリストで、日本のギター界を技術的に「開国」させた功労者の一人だった。後進の指導にも熱心で、国内外に多くの弟子を持ち、蒔野もこの人だけには「頭が上がらない」と常々公言していた。
 清廉高潔な人物で、クリスチャンなのに、祖父江の禁欲的なバッハのリュート組曲のレコードは、「禅の精神によるバッハ」とヨーロッパで評されていた。礼儀を重んじ、弟子が独立すると、以後は必ず敬語で話すようになるというのは有名で、それは、弟子の世代が孫ほどになった今でも変わらなかった。


第四章 再会/6=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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