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『マチネの終わりに』第六章(45)

 洋子は、蒔野を愛することによって美しくなり、これから蒔野に会うために美しいのだと、三谷は感じた。そして、身を裂かれるような激しい嫉妬に襲われた。

 彼女は、夥しい数の乗客が行き交う改札の付近をうろうろした。時々人にぶつかりそうになり、何をしているのかと不審らしく振り返られた。苛々した。長居すると洋子に気づかれ兼ねず、実際、ここに留まっていても仕方がなかった。

 恋敵が、一回り近くも歳上というのは、これまで経験したことがなく、三谷は、三十にもなって、自分を酷く子供染みていると感じた。

 洋子が蒔野に似合っているというのは、彼女を絶えず苦しめる想像だったが、今ほどそれを強く感じたことはなかった。

 洋子は、何もかもに恵まれて、華々しい、自らが主役としての人生を生きている。そして、自分は今、蒔野の人生の脇役として、擦れ違いかけた二人の人生を、この携帯電話を届けることで再び結び合わせようとしていた。なるほどそれは、他の誰にも務まらない重要な役どころに違いなかった!

 三谷は、惨めな気持ちになった。残酷な皮肉だったが、そもそもは自分で買って出た役目だった。蒔野はその間に、洋子からの着信があったとしても、まさか自分が傷つくとは夢にも思っておらず、暗証番号さえ教えるほどに、人間としては自分を信頼しきっていた。残酷なのは彼というより、恐らく何か運命的なものだった。

 エスカレーターで大江戸線の改札へと向かいながら、三谷はただ、蒔野に洋子と会ってほしくないと思いつめていた。そしていつか、その一念こそが、すっかり三谷を飲み込んで、三谷という一人の女のことを物憂く考えていた。

 ホームのベンチに座って、蒔野の携帯に届いていた洋子のメッセージを見つめた。

 ひっきりなしに電車が往来し、その騒音に紛れまいとする乗客たちの話し声が、三谷を益々孤独にさせた。

 三谷は、学校に行きたくないばかりに、自宅に火をつけてしまう少年のような、奇妙な勇気へと追い詰められていった。重要なことは、とにかく、洋子と蒔野とが今夜会わないということだけだった。


第六章・消失点/45=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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