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『マチネの終わりに』第六章(6)

 洋子は、その問いにすぐには答えられなかった。事実としては知っていたが、理由を深く考えてみたことはなかった。
 それはやはり、実の親子としては不自然なことのはずだった。
 蒔野は、自分の問いが、洋子の胸の裡の複雑な場所に触れたのを察したが、今はもう、それを怖れるべきではなかった。彼女が自分の内面に目を向けている間、彼は黙ってその姿を見守ったが、たとえ何も語られないとしても、その時間自体が、彼を一層彼女へと近づけることになるはずだった。
 彼は、洋子が真剣に考えている時の表情が好きだった。彼女の人生に対する真面目さを愛していた。相手に対する答えは、常に同時に自分自身に対する答えでもあらねばならない。
 そう信じている風の彼女の誠実さに、強く心惹かれていた。
「今はもう、父との関係も良好だけど、二十代の頃までは複雑だったから。……どんな事情にせよ、こっちは置いて行かれた身でしょう? そのことを父にあれこれ訊きたかった年頃には上手く英語を話せなくて、少しずつ話せるようになってからは、もう何も言わずに、そっとしておきたかった。母がスイス人と再婚して、ジュネーヴに移り住んでからは、縁遠くもなっていったし。少し色々話すようになったのは、大人になってからよ、わたしが。この十五年くらい。」
「お母さんは、再婚してたんだ? 二番目のお父さんのことは、よく理解してなかったな。それで学校がスイスなの?」
「話してないもの。わたし自身、寮に入っててほとんど一緒に生活してないから、新しい父親っていうより、母のボーイフレンドって感じね。経済的には随分と助けられたけど、愛着が湧かないまま、母がまた離婚してしまったから、わたしは彼とはまったく連絡取ってないの。」
「そう。」

「実の父の方は、……そうね、九年間も何してたのかしら? 今度会ったら訊いてみる。――それとも、自分で訊く? 紹介しないとね、早いうちに。」


第六章・消失点/6=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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