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『マチネの終わりに』第一章(7)

「二番目の日本人の妻の娘です。わたしが物心つく前に離婚してますから、父と一緒に生活した記憶はないんですけど。でも、今でも交流はあります。」

「そうなんですか!? いや、《幸福の硬貨》は、僕がギターを本当に好きになったきっかけの映画なんです。子供の頃から、何度繰り返し見たことか!……そうですか。お父様のことは、本当に尊敬してるんです。本当に!」

「ありがとうございます。父の作品について、そう言ってくださってること、知ってました。わたし実は、蒔野さんの演奏を聴くの、二回目なんです。パリ国際ギター・コンクールで優勝したあと、母と聴きに行きましたから。日本人なんだって!って。サル・プレイエル、でしたよね、直後のコンサート?」

「えっ、……本当ですか? 参ったな。いや、光栄ですけど、……ヘタだったからなぁ、まだ。」

「いえ。あんまり素晴らしくて、わたし、蒔野さんにとても嫉妬したんです、その時。父の映画のテーマ曲を、わたしより二つ年下の日本の高校生が、こんなに立派に演奏して、拍手喝采を浴びてるなんて! 許せないって。すごく不機嫌になりましたから。」

 洋子は、そう言って、鼻梁にキュッと小皺を寄せて白い歯を見せた。子供みたいに笑うんだなと、蒔野は思った。

 会場を出る時間が迫っていたが、二人の会話は尽きる気配がなかった。それは、最初だからというのではなく、最初から尽きない性質のものであるかのようだった。

 電話をかけに少し外していた三谷が戻って来ると、打ち上げ会場に移動するように促した。洋子はオメガの腕時計にちらと目を遣って、「もうこんな時間。すみませんでした、お疲れのところを。」と、それを潮に帰ろうとした。

 蒔野は勢い、「良かったら、打ち上げに来られませんか? もう少しお話をしたいんですが。」と誘った。是永も、それを受けて、「行きましょうよ!」と彼女の腕を取った。

 洋子は、躊躇うふうだったが、もう一度時計を見て、「じゃ少しだけ、お邪魔でなければ。」と同意した。タクシーに分乗して、ワンメーターほどの距離にある、馴染みのスペイン料理店に向かった。もう十一時近くだった。


第一章・出会いの長い夜/7=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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