『マチネの終わりに』第一章(15)
「そうだよ、その時は。でも、そういう不幸があってから思い返すと、複雑な気持ちになるでしょう?」と蒔野は言った。
「えー、わからない。……え、洋子さん、そういう話だったんですか?」
「今、自分でもわかりました、蒔野さんのお話を聞いていて。もやもやがすっきりしました。」
蒔野は洋子を少しだけ見て目を伏せた。三谷は納得しなかった。
「えー、……でも、……だから何なんですか? ごめんなさい、わたし、全然理解できないんですけど、その感覚が。」
「何でもないんです、だから。ごめんなさい、ヘンな話になってしまって。」
洋子は、三谷が酔っているのにようやく気がついて、そのまま場を収めようとした。しかし、蒔野は会話を続けたがった。
「いや、ヘンじゃないです、全然。音楽ってそういうものですよ。最初に提示された主題の行方を最後まで見届けた時、振り返ってそこに、どんな風景が広がっているのか? ベートーヴェンの日記に、『夕べにすべてを見とどけること。』っていう謎めいた一文があるんです。ドイツ語の原文は、何だったかな。洋子さんに訊けば、どういう意味か教えてもらえるんだろうけど、……あれは、そういうことなんじゃないかなと思うんです。展開を通じて、そうか、あの主題にはこんなポテンシャルがあったのかと気がつく。そうすると、もうそのテーマは、最初と同じようには聞こえない。花の姿を知らないまま眺めた蕾は、知ってからは、振り返った記憶の中で、もう同じ蕾じゃない。音楽は、未来に向かって一直線に前進するだけじゃなくて、絶えずこんなふうに、過去に向かっても広がっていく。そういうことが理解できなければ、フーガなんて形式の面白さは、さっぱりわからないですから。」
蒔野は、そう言うと、一旦考える間を取ってから言った。
「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」
第一章・出会いの長い夜/15=平野啓一郎
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?