『マチネの終わりに』第四章(2)
きっともう、自分の演奏も聴いてはいないだろう。そもそも、今のバグダッドで、クラシック・ギターのバッハなんかに、一体、何の意味があるだろうか?――そんなことを、蒔野は自宅のスタジオで、一向に身が入らない練習の合間に考えた。たった五時間の練習でさえ、彼の集中力は持続しなかった。
諦めようと思いきったことで、蒔野は、自分が洋子を既に愛し始めていたことを悟った。これが、この一カ月半近くに亘る音信不通のもたらした、最も重要な変化だった。彼は、洋子の心の中で、自分の存在がどれほど大きな位置を占めつつあるかを、まるで知らなかったので、所詮は、二人は別世界の住人だったのだという結論を寂しく受け容れた。
洋子からの「長い長いメール」が届いたのは、まさにそうした時だった。
蒔野は、洋子のそのメールの途轍もない長さに驚いた。右端のスライド・バーが、米粒のように小さくなっている。こんなに長いメールはかつて誰からも貰ったことがなく、最初は一体、何が書かれているのだろうかと、喜びよりも不安が勝っていた。
しかし、十行ほどを読んだところで、彼はその非常に端整で、洗練された文章に引き込まれていった。分量は多かったが、病的に筆が走ったところは一箇所としてない。それはちょっとした手記のような読み応えで、蒔野はやはり、彼女を尋常でない人のように感じた。そして、その分量だけでも、自分が彼女にとって、特別な存在であることを信じられそうだった。
洋子は、長い無音を詫び、テロ事件後に彼から貰った三通のメールがどんなにうれしかったかをまず伝えた。そして、すぐに返事を書きたかったが、どうしても書けなかった、と言い、こう続けた。
「言葉にする以外に、自分を立て直す方法はないはずですが、自分に向かって自分について語ることの難しさを改めて感じています。それで、あなたに聞いてもらうつもりで、文章を書き始めました。あの夜、スペイン料理店で向かい合った、あなたの姿を思い浮かべながら。
第四章 再会/2=平野啓一郎
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