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『マチネの終わりに』第六章(9)

 蒔野は、そうした洋子の話を、実際、自分の身内となる人間の話として聴いた。
 初めて会った日の夜、いかにも遠い世界の現実として、瞠目しつつ耳を傾けた彼女の境遇は、今や彼が、この後一生、関与し続ける世界として眼前に広がっていた。
「人類」などという概念は、たとえ音楽家として考えるべきであったとしても、巨大すぎて持て余してしまうものだった。しかし、洋子を通じ、親族の一人として向き合わざるを得ないのであれば、何かしら具体的な手応えが得られるのかもしれない。そしてそれは、自分の音楽の姿を、また違ったかたちで見せてくれるのではないか。
 蒔野は幸福だった。しかし、独り洋子のみが払った少なからぬ代償――本人は決して口にしないが、フィアンセとの婚約解消のみならず、その家族や知人らとの関係の整理、結婚式のキャンセルなど、煩瑣な負担の数々は計り知れなかった――によって得られたその幸福が大きければ大きいほど、彼は、自らのギタリストとしての停滞に耐えられなくなっていた。
 マドリードのフェスティヴァルで精彩を欠き、若い新しい才能に圧倒されたことが、重たく心に伸しかかっていた。更にそれに追い打ちをかけることとなったパリのリサイタルでの失敗。……洋子との愛の成就は、彼を束の間慰めはしたものの、むしろそのコントラストによって焦燥はいや増した。
 蒔野は、かつては当たり前のように満たされていた、あの創造的な生の充実が、今という時に、自分に完全に欠落していることの不遇を呪った。もしその音楽家としての幸福と、洋子の存在によって齎された幸福とが一致していたなら、今日という一日は、どれほど晴れやかな歓喜とともに過ごされたことであろうか?
 彼は自分が、決してその後者によってのみ生きられる人間ではないことを知っていた。

 音楽は、彼の生の根拠であり、彼が自分という人間に見出し得る、唯一の慰めだった。それは、他の何かによっては金輪際、代替されぬものであり、埋め合わせの利かぬものだった。演奏家としての不甲斐なさに恥じ入る今のような状態のままでは、いずれ洋子との愛の生活さえ享受し得なくなることは目に見えていた。


第六章・消失点/9=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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