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『マチネの終わりに』第四章(14)

 そして、確かに素敵な人だが、自分とは合わないと感じていた。
 こちら以上に、恐らくは洋子の方が、そう思っているだろう。直接そう言えば、きっとあのこちらの心を何もかも見透して、優しく理解するような目で、首を横に振ってみせるに違いなかったが。
 蒔野は、ほどなく洋子のことを何も言わなくなった。それは、関心を失ったからではなく、彼女への思いの中に、何か気軽には人前に曝せない感情が籠もるようになったからだった。
 三谷がそれに気づいたのは、バグダッドの洋子の滞在先でテロが起きた時の蒔野の尋常でない落ち込みようと、その後、一カ月以上沈黙があった後に、無事がわかってその喜びを抑えきれぬように報告してきた時の様子からだった。
 蒔野は、常日頃から陽気な人間だったが、人を笑わせるのが好きな割に、彼自身が心から笑っていることは珍しかった。殊に昨年来、蒔野は些か迂闊なほど、人と冗談を言い合っていても、ふとした拍子に、独りだけまるで別の場所にいるかのように、ひどく考え込むような表情を見せることがあった。
 蒔野の音楽的苦悩に薄々気がつき、心配していた三谷は、ともかくも、彼の笑顔を喜んだ。しかし、いつしか蒔野に、一人の女として惹かれていた彼女は、まるで報われる見込みのないその感情の火を、必死で踏み消そうとしている最中だった。
 蒔野がパリで洋子に会う。――飛行機のチケットの件で蒔野とやりとりをしながら、三谷は、二人の再会の光景を思い描いて、胸の奥の不安の在処を鷲掴みにされたかのようだった。
「――洋子さんに会うんですか?」
 三谷は、からかい半分に探りを入れるつもりだったが、意に反して、ほとんど詰問するような調子になってしまった。
 蒔野は、その唐突さに怪訝な顔をした。そして、さすがに憮然として、
「まァ、……色々、予定があって。」
 とつれない返事をした。
 三谷はこのところ、こんなふうに、何度か蒔野の不興を買っていた。


第四章 再会/14=平野啓一郎 

#マチネの終わりに



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