『マチネの終わりに』第五章(26)
ジャリーラは、先ほどの冒頭よりは、まだどうにかイメージできるという風に頷いて聴いていた。
洋子は、もう一度立ち上がって、今度は滞りなく朗読するために、英訳本を持ってきた。そして、第五の哀歌のページを開くと、ジャリーラに目配せした。
蒔野は、
「じゃあ、洋子さんが朗読したら、続けてテーマ曲を弾くよ。ジャリーラのために、映画のラストを再現しよう。」
とギターを調律しながら言った。洋子は、そのアイディアに同意して、
「わたし、これからはプロフィールに、『二〇〇七年六月には蒔野聡史と共演。』って書くことにするわ。」
と白い歯を見せた。
ジャリーラが拍手すると、洋子は、「広場の大道芸人たちをあらかた見物し終えてから、最後にこう続くの。」と説明し、軽く深呼吸してから、その短い件を朗読した。
天使よ! 私たちには、まだ知られていない広場が、どこかにあるのではないでしょうか?
そこでは、この世界では遂に、愛という曲芸に成功することのなかった二人が、得も言わぬ敷物の上で、その胸の躍りの思いきった、仰ぎ見るような形姿を、その法悦の塔を、疾く足場を失い、ただ互いを宙で支え合うしかない梯子を、戦きつつ、披露するのではないでしょうか?――彼らは、きっともう失敗しないでしょう、いつしか二人を取り囲み、無言のまま見つめていた、数多の死者たちを前にして。
その時こそ、死者たちは、銘々が最後の最後まで捨てずにおいた、いつも隠し持っていた、私たちの未だ見たこともない永遠に通用する幸福の硬貨を取り出して、一斉に投げ与えるのではないでしょうか?
再び静けさを取り戻した敷物の上に立って、今や真の微笑みを浮かべる、その恋人たちに向けて。
蒔野は、文字を追う洋子のその横顔を見つめた。想像力が、ほのかにその眉間を強ばらせ、瞳の動きに上瞼の睫が繊細に揺れた。
第五章 再会/26=平野啓一郎
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